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第13話 ずぶ濡れになる

 一瞬で、息ができなくなった。  熱くて、喉奥からヤケドしたみたいに内側が熱くておかしくなりそう。音が遠くなる。身体が、痛い。一誠を見たら、女の人に笑いかけていた。俺が来るはずのない水曜に、俺がいない空間で、楽しそう笑ってる。綺麗な、綺麗な女の人と。  イヤだ。  なんで笑ってんの? その女の人、後姿とちょっとだけ見える横顔だけでもわかるよ。あの、モンブラン買っていった人じゃんか。覚えてる。すごく嫌な気分になったから覚えてたんだ。  何これ、なんでこんな苦しいんだよ。  何が痛いの? 身体? それともどっか別の場所? なんでこんなに熱いの? お腹んとこが熱くておかしくなりそう。  一誠、俺、溶けそうだよ。だから、こっちに来てよ。その人のとこにいないでよ。 「トウ!」 「!」  ねぇ、一誠。やっぱ、空もココア飲んじゃダメって言ってるっぽい。 「トウっ」  へそ曲がりな俺は来て欲しかったくせにさ。 「み、店に戻れよっ……雨降ってっ……濡れるって、一誠っ」  雨が降り出した。ぽつ、ぽつ、ぽつぽつってどんどん雨粒が連続で落っこちてきて、アスファルトに一瞬で地味な水玉模様を描いた。でもそれもすぐに塗り潰されて、俺の手も、その手を掴む、一誠の手も濡れていく。  秋の冷たい雨なのに、何これ、全然、熱いよ。ねぇ、一誠が触れたところが焼けてるみたいに熱い。 「一誠っ! 離せって」 「トウ、待って」  これってさ。 「トウ、ちょっと待って、そんな」  これって。 「そんな甘い香りさせて」  ココアは飲んじゃダメだって、空が俺に約束しただろ早く帰れよって、雨粒を大きくして、どんどん服も髪も全部、全身ずぶ濡れにしていく。でも、一誠の手が俺を掴んで離してくれないんだ。ほどけないんだ。 「雨なのに、こんなに甘いの漂わせて、どこに行くの? トウ」  一誠の手をほどけない。だって、身体がこんなに熱い。ほどけるわけがない。 「……トウ」  一誠のことが好きで、欲しくて、発情してるから。 「一誠」  ただ、名前を呼んだだけで喉奥が焼け爛れそうなくらい。熱くて、一誠のことしかわかんない。  甘い香りは俺から漂ってるの? 「本当に、異常なくらいに甘い香り」  抱き締められて、身体を狂ったような悲鳴みたいな痛みが駆け抜けた。 「っ、一誠っ、やだって」  異常な発熱。異常な欲情。強烈な欲求。 「やだっ! 怖いって!」  あんな一気に降り出した雨にも流れることのない蜜香を自分が放ってるなんて、怖いよ。何に突き動かされてるのかわかんない。何に抗ってるんだろう。怖くて、逃げ出したい。 「一誠、助けて……」  逃げたいって、俺は、何から逃げるの? 「トウ……」  ずぶ濡れになった一誠が俺を真っ直ぐに見つめた。手を掴んでいた力はきっと振り払おうと思ったらできると思った。だって、一誠の瞳が、雨で濡れた瞳が、逃げるのなら、今だけは許してあげるって、言ってる気がしたから。 「ぁ……」 「おいで」  与えられた考える猶予はほんの少しだけ。でも、別にそれが一秒でも一分でも、一時間でも、俺はきっと一誠の手を振り解こうとさえしなかったと思う。逃げ出したいけど、一誠のそばに行きたい。もっともっと近くに。 「すみません。今日はもう店閉めるので」 「あ、え、えぇ……」  さっきの女の人がいた。俺をチラッと見たのが、視線の端っこでわかる。何を思ったんだろう。こんなズブ濡れになってなんなんだろうっていぶかしがってるかもしれない。オメガって思われたかもしれない。今、一誠のことが欲しくてたまらないって、知られた、かもしれない。 「っ」  一誠の手が、力いっぱい俺の手首を掴んでた。彼女が俺の隣を通り過ぎる間、ずっと、俺を離さないって、痛いくらいに手首を鷲掴みにされていた。 「……彼女、アルファなんだ」 「え?」 「トウの甘い香り、嗅いだかな……」 「え? あ」 「蜜香、っていうやつ」  オメガが出す特有のフェロモンを俗語でそんなふうにいうことがある。甘い甘い蜜みたいに誘惑して、オスでもなんでも引き寄せ集めるからって。 「どんな香りなのかって、あのお客さんに聞いてた」 「え……なんで、そんなこと」 「一昨日、帰り際、トウからほのかに香ったから」 「……」  お菓子の甘さとは違う。花のような香りとも違う。香水のような強烈に刺激する香りでもない。上品に甘くて、卑猥なほど喉奥にたまるこってりとした香り。 「……俺、匂ってたの?」 「少しだけね。こんなに、眩暈がするほどの香りじゃなかったよ。風に乗って、少し鼻先を掠める感じ」  ケーキ屋だから、甘い香りには敏感なんだって、言って、俺を捕まえている手に力を込める。  俺の蜜香を、一誠がもうあの時に? 「でも、ごめん。頭がおかしくなりそう」  そう言って眉間に深い皺を刻んで、濡れた髪を掻き乱す。一誠の眉間にはちっとも似合わない、皺。 「一誠?」 「君はセクサノイドなんだろ? そしたら、この蜜香は番とかそういうのじゃなくて」  本物のオメガは、そうだよ。発情して、番をこの蜜香で探し出すんだ。抑制剤を使わなければ定期的にヒート状態になって番を求める。番になってしまったら、蜜香はそのアルファのためだけに香る。 「うん。俺のヒートは本物のオメガのとは違う」  一誠って、こんなに眉間の皺が似合わないのかよ。 「俺は、セクサノイドだから」 「っ」 「スイッチがあるんだ」  俺の蜜香は人工的なものだから、機能っていったほうが似合ってる。スイッチ式の蜜香。 「スイッチ……?」 「そう、スイッチ。好きな人ができると」 「……」  一生、このスイッチがオンになることはないと思ってた。人は嫌い。人は怖い。人のことは、一生好きにならない。そう思ってた。 「恋を、すると入るんだ」  こんなに甘いんだ。俺の蜜香。とろりと蕩けて、ゾクゾクするほどの甘さで、一誠のことを焦がれてる。 「一誠を好きになったから、入った、スイッチだよ」  好きな人に抱いてもらいたいって、一生懸命に誘惑するための蜜香。それを全身にまといながら、ちっとも似合ってない一誠の眉間の皺を俺の指でクンと押した。

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