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第14話 怖い指、甘いキス

「……好き」  何、この言葉。口にしてみた途端に喉奥が焼けたように熱くなる。これと同じ熱を味わったことがある。 「一誠……好き……」  これは、あれ。一誠にもらったチョコだ。看板の絵を描いてた時、一粒渡されたコスモスの花のチョコレート。口に入れた瞬間、舌の上で蕩けて、喉奥に流れ込んでいく甘くて濃いチョコレート。食べるんでも、飲むんでもない。身体に染み込んでいく感じ。  ダメ。この好きは身体に染み込ませちゃいけない。こんな甘いのは。 「っ、ど、しよ、一誠っ」  頭がおかしくなっちゃうよ。何これ、助けてよ。 「一誠っ」  俺、どっか本当に壊れたのかな。なんで、こんな涙が流れるんだろ。どうしたら止まるんだろう。 「一誠、怖いっ」 「……トウ」  一誠に名前を呼ばれて、その指先が目尻をなぞった。 「触、んなっ、ダメ、一誠」 「なんで? 俺にさっき触れたじゃん」 「っ、そ、だけど」  触りたくて触ってしまった。そしたら、喉奥んところにある熱がもっとずっと高くなって、ツバを何度飲み込んでも、また込み上げてくる。きっと、俺が熱くなる分、蜜香も濃くなってるんだろ? もう嗅覚が麻痺しそうなくらい甘い香りがしてて、息が苦しい。こんなに蜜香を濃くして、こんなに一誠のことを誘惑してる。本人ですら頭の芯が溶けそうなんだから、一誠だってそうだ。きっとまともになんて考えられなくなって、そんで、この欲求に応えてくれる。応えさせたらっ。 「俺も、トウのこと、好きだよ」  ダメなのに。 「ちがっ」  慌てて首を横に振った。違う。その好きはこの蜜香のせいで言わされてるだけ。人工的な蜜香だけど、でも、この香りはちゃんと相手の神経を侵すんだ。本物のオメガみたいにちゃんと相手のことを誘惑できるんだ。 「違うっ」 「違わないよ」 「っ」  触るな。触られたら、また、蜜香が濃くなって、そんで、一誠のことを誘惑しちゃう。 「やだっ、一誠、っ」 「好きだ」 「一誠っ!」 「寝癖くっつけて、俺のベッドの中から慌てて飛び起きたトウのことが好きだ」 「……」  寝癖って、ベッドって、それは、あの雨の日の翌日。俺が絵を捨てようとした日の、次の日。次なんてもういらないと思った日の、翌日。 「あの時、トウの笑った顔、きっと絶対に可愛いだろうなって思った」 「っ」 「この子が自分に向けてだけ笑ってくれたら、最高だろうなって。あの寝癖くっつけてびっくりした顔して、慌てふためいてしどろもどろで」  雨にずぶ濡れになって俺なんて壊れればいいって思ってた。ただのロボットで、ガラクタで、ポンコツで、壊れたかった。でも、一誠のココアがあったかくて、雨で冷え切った身体がぽかぽかして、気持ち良かった。あの朝に飲んだココアはもっと甘くて、美味しかった。  また、飲みたいって、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ思ったんだ。次を、望んだんだ。ココアが飲みたいって、小さな希望を持った日。 「この子のこと、甘やかして、笑わせて、そんで」  壊れたいと切に願ったくせに、ココア飲んだくらいで、そっちの願いが消えて、違う小さな願いが生まれた。 「好かれたいって、思った」  ずっと冷たかった体が、たった一杯のココアであったまった。 「トウのこと、好きだよ」 「っ」 「蜜香が漂う前から好きだった。君が来るだろう月曜日が楽しみだった。突然帰っちゃって、どんだけ慌てたと思ってる? かなり、焦ったよ。連絡先なんて知らないし。君には余裕ぶっこいて、来たい時だけ来たらいいって、言ったけど、内心、大慌て。もう来ないんじゃないか? って、あの時の自分の行動とか言動とか反復してさ」  一誠が? 慌ててた? 月曜を楽しみにしてた? 内心、なんて。 「君が次の月曜に現れた時の俺を覚えてる?」  覚えてる。看板眺めてたら、手を掴まれたんだ。びっくりした。看板のあるところから、店までいくらか距離があるのに、瞬間移動でもしたみたいに、突然俺の目の前に現れたから。 「トウはそんなつもりないだろうけど、火曜の美術館、あれ、俺にとってはデートだったんだ。緊張しまくって、ほぼ寝てなかったよ」 「……」 「トウとデートとか思ってかなり嬉しかった」  俺は……俺は、あの晩、どうしたらいいんだろうって、困って悩んでた。服とかわかんないしって、今まで独り言さえ言ったことのない部屋でずっとぶつくさ話してた。 「な、なぁっ、一誠」 「ん?」 「俺の、蜜香、すごくない、のか?」  むせ返るくらい甘い香りがこの部屋いっぱいに詰まってる気がする。甘くて、濃くて、こってりとした胸のところが焼け爛れて、全身が火照るようなそんな香り。 「? すごいけど?」 「じゃっ、じゃあ、なんでっ」  なんで平気な顔して話してんだ。これ、きっとかなり濃いと思う。アルファでもベータでも嗅いだら一瞬で正気じゃいられなくなるくらい、病的で強制的な蜜香なはずなのに。 「だって、この香り嗅ぐ前から、好きだったんだから」 「……」 「変わらないだろ? 我慢の度合いは」  何、言ってんだよ。何、この変人アルファ。 「は、はぁ?」 「綺麗な香りだ」 「っ」  ふわりと笑った。欲情むき出しとかじゃなくて、本能に強制的に何かを強いられているとかじゃなくて、いつもの一誠の笑い方。 「が、我慢とか……して……」 「してたよ。ずっと」 「っ」  一誠の手は大きくて、指は骨っぽくて、優しくて、好きなのに。 「ずっと、我慢してた」 「っ、一誠」  今日は怖い。 「君に好かれたいって」 「っ、い……」 「キスしたいって、我慢してた」 「っ」  蜜香のせいで喉奥からずっと熱くておかしなりそうだった。でも、今、すぐそこ、ちょっとでも身じろいだら触れてしまうところにある一誠の吐息も熱い。唇にその熱が触れて、くすぐったくて、動いちゃいそうで。 「トウ……」  一誠の手が、全部が、怖いよ。 「好きだ……」  触れたら、きっと、俺は溶けてしまうから、すごく怖い。でも、すごく、嬉しい。だから、その肩にぎゅっと掴まって、ちょっとだけ身じろいだんだ。

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