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第31話 小さな前進
昨日はセックス、しなかった。
顔を洗って、じっと、そこに写ってる自分を見つめた。不思議だ。どこか、俺の中で、「好き」と「セックス」って、一緒になってるっていうか、まぁ、それが主な存在理由だからなのかもしれないけど、好きだと伝えるための手段としてのひとつで、っていうか、それが一番よく伝わる方法だと思ってた。セックスするのが、好きを確かめられる一番の方法で、そして、一番自分を満たしてくれる方法なんだと、そう思ってたんだ。
好きな人に気持ちと伝えるための、わかりやすい手段。
その方法で伝えてもらえたら、俺もすごく嬉しくなるんだって。
でも、それ以外にも気持ちを満たしてくれて、こんなにふわふわと羽が生えたみたいに嬉しくなる方法があったなんて。
ただ、抱き合って眠っただけなのに。
「おはよう。ココア、いれたよ」
朝、一誠が作っているパンケーキの良い香りで目が覚めた。優しいバターの香りと、生地を焼く時の心地良い音。
「あ、うん」
いつもどおりの朝だった。
「昨日は、ごめん。もう縁は切ってるからさ。記憶の中でも切って仕舞って、もう口にすることもないと思ってたんだけど」
いや、いつもとは少し違う。
「俺!」
「……トウ?」
一誠の気持ちを全てはわかってないかもしれない。縁を切られた時の気持ちも、ケーキ屋を作るのがどれだけ大変だったのかも、ずっと閉じこもって、誰とも話さず聞かず、何も見ないで遠くに隠れてるばかりだった、小さな世界にしかいなかった俺にはわからないこともたくさんあるだろうけれど。でも。
「俺の腕枕!」
「……」
でも、ひとつだけ、わかることがある。
「気持ちっ、よかったっ?」
「……」
「ちゃんと、眠れた?」
一誠は落ちこぼれじゃない。もしも、落ちこぼれだとしても、アルファらしくない、ダメな奴だと言われても、俺は。
「あぁ、うん、よく、眠れたよ」
俺は、一誠のことが好きだよ。
「……そっか、よかった」
「……っぷ」
「なっ、なんで笑うんだよっ」
一誠のパンケーキはとても美味そう。一回でいいから、触ってみたいって思ってる。優しくてあったかくて、きっと、一誠みたいなんだろうなぁって。
「いや、俺は世界一幸せだなぁって思ったんだ」
「は? な、なんでっ」
「不器用でさ。才能はあったかもしれない。なんでも上手にできて、何だって、手に入ったかもしれない。でも、俺は緊張するほうで、何をやらされても上手にできなかった。テストも、運動も、音楽も、もちろん、人の上にたつための試練も何もかも、あの人たちにやれと言われたこと全部、普段だったらできたことさえ、緊張でできなくて、結果はゼロのまま。落ちこぼれ」
「そんなのっ」
「ね、トウ、聞いて?」
そんな否定ばっかしないでよって、首をぶんぶん振る俺の手に、ぎゅっと握った拳に大きな一誠の手が被さった。包み込まれて、きゅっと握られた。
「何も彼らの期待には応えられず、虐げられて、邪魔者扱い。母は笑ってくれるけれど、でも、きっと辛かったし悲しかったと思う。今は田舎でのんびり暮してる。だから、あの雑誌でうちの店のことを載っけてくれたのは嬉しかった。母も見るだろうから」
「……」
「何も応えられず、母にも悲しい思いをさせた自分をなんて悲しい存在なんだって思ったこともあるけど、でも、それでよかった」
なんで? そんなん、悲しいじゃん。一誠はすごいのに。あっちが勝手なんだろ。押し付けるばっかじゃないか。
「いいんだ。それでよかった。何も、あの人達の期待に応えられなくてよかった」
柔らかく笑ってくれる一誠のことを誰にも悪くなんて。
「トウに出会えたんだから」
「……」
「君とこうしてられるんなら、全部、よかったって思えるよ」
「なっ……」
「なんでだろうね。でも、トウのことが好きだよ」
理由は知らない。蜜香が香ったんだ。ただ、恋をした。今、手を繋いでいるこの人のことをたまらなく愛しいと思った。大事にしたいと思った。ただ、それだけ。そして、それだけでとても幸せになれるんだ。
「えっと、これとこれ、ぁ、これもじゃん。追加発注しといたほうがいい気がするんだけど、どうなんだろ」
こういうのやったことない。メールで送られてくる出庫リストを見ながら、倉庫から商品を持ってくることしかしなかった。でも、この倉庫で仕事してるんだから、どっちにしても在庫の管理は兼ねてるんだから、やったって悪いことじゃないだろ? 棚の端から端をくまなくやってるわけじゃなくて、ただ、ふと気がついたやつだけ。「あれ? これ、もう在庫ひとつじゃん」って気がついた時だけなんだし。余計で邪魔なことかもしんないけど。
「すみません。交代します……」
その時、この後に入っている他のスタッフが倉庫にやってきた。いつもと同じ人。時間シフトでコロコロ変わるけれど、俺の次がこの人っていうことが多い。俺もそうだけど、この人も人付き合いが好きじゃないみたいで、いつも俯きがちで顔をちゃんと見たことはない。言葉も、この「交代します」「宜しくお願いします」くらいで、あと、ちょっとした業務連絡くらいだ。
「あ、あの、すみません。これ、在庫出しながら、気がついた、欠品になりそうなやつ」
「……ぇ?」
「書き出しておいたんです。ちょっとした業務時間外になるんですけど、メールで在庫管理部のほうに送るんで、すみません」
リストをただパソコンで打ち込んでメールするだけだから、数分で済む。残業にはならないから。
「すぐ終わらせます。あ、これ、出庫依頼リストです」
いつも入れ替わったら無駄話せずに、俺は倉庫を出ていくから、ちょっとでもいられると嫌かもしれないって思ったんだ。だから、一言伝えてから、急いでパソコンでリスト作ってメールしようと。
「あのっ! 俺、やっておくんで」
「……」
「もう時間だし、上がってください」
びっくりした。
「あ、はい……ありがとうございます」
相変わらず、顔は俯いていてわからないけれど、いつもの挨拶と業務連絡以外でこの人と話したの、初めてだ。
「それじゃ、お先に失礼します」
「あのっ」
なんか、嫌、だったかな。人付き合い苦手とか嫌いって人がここで仕事してることが多いし、そのくらいじゃないとここの業務は続かないし。んで、俺もだけど、この人も相当長いから、だから、イヤだったかもしれない。早く帰れって、そう思われたかもしれない。
「リスト、ありがとうございます。俺も、なんか、在庫少なくない? って思ったのあったんで、追加で書いて送らせてもらってもいいですか?」
「!」
イヤだって、思われてなかった。
「あ、はいっ、是非!」
なんか、嬉しくて、気持ちと一緒に身体も実際に少しだけ、ちょっとだけ、ぴょんと跳ねた。そして、急いで頭を下げて、倉庫を飛び出した。
「お疲れ様ですっ」
真っ直ぐ走りながら、あっちこっちで、通りがけに挨拶して、そんで会社を出て、一誠のところへ向かったんだ。小さなことかもしれない。他の人にしてみたら、だから何? ってことかもしれない。でも、俺にとってはすごく劇的で、ビッグニュースだったんだ。だから、早く一誠に教えたかった。
今日、ちょっと仕事頑張ったんだ、って、そう伝えたかった。
「あー……すっご」
だから、早く帰って一誠に会いたかったんだけど。
「看板のとこまで並んでる」
雑誌に載っただけでこんなになるんだ。すごい行列になってる。俺が描いた看板のところまで列は連なっていて、それが店からだとしたら、っていうか、この行列ん中、一誠ひとりで店やってるのかな。ちょっと大変だよな。さすがにこれは。俺なんかでも手伝えるかな。レジとか、そういう接客業ってやったことないけど、でも――。
「おい、お前」
何か役に立てるかもしれない。手伝えることがあるかもしれないって、店へ向かおうとしたら、手を引っ張られた。踏み出しかけた足は、強く引かれたことでよろけて、でも、よろけるのすら許さないような強引な腕だった。
「なんなんだ」
そして、振り返ったら、心を一瞬でボロボロにされそうなほど、辛らつな視線に身体が竦んだ。
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