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第32話 スーツの男
ひどく冷たくて、目が合っただけで、痛みを感じた身体が勝手にすくみ上がる。
「なんなんだ、お前」
低い声でそう訊かれただけで、全身が軋んで痛い。怖い。
「オメガ……じゃないだろ」
「!」
そこでようやく気がついたんだ。この人、一誠の家族だった人だって。顔が、あの本屋で見た時は横顔だけだったからか、俺のほうを見てなくて嫌悪の表情を浮かべてなかったから、一誠に似てるって思えたけど、今、全くの別人でしかなくて、ちっともわからなかった。
「なんだ、この甘い香り」
「!」
「……お前」
「はっ、離せっ!」
向こうが汚い物でも触ってみたいに手を離すよりも早く、自分から一誠の元家族だった人の手を振り払った。痛いの、イヤなんだ。怖いことなんて、されたくないんだ。ビビりだから、ずっとそうやって、避けてひとりでやってきた。こんなふうにさ。
「お前、セクサノイドか」
こんなふうに蔑まれるのが怖くて痛くて、ずっと俯いて、誰にも近寄らずに、そっと静かに暮してた。
「なんで、セクサノイドなんかがあいつのところに」
「っ」
そう、この反応がたぶん普通だ。セクサノイド、ニセモノ、ラブドール、ただのオモチャ、卑猥物、他には、なんだろう。わかんないけど、どれもこれも、俺を傷つける痛い言葉ばかりで耳なんて、聴覚なんてなければいいのに。
仕事しててもそうだった。たまに、極稀に、俺がセクサノイドだって気がついた奴がいたりする。その時の反応は二通り。冷やかして、興味半分に近寄ってくるか、使い捨ての卑猥なオモチャが転がってるって蔑まれるか、そのどっちか。
「おい、あいつのところで何をやっている」
「っ」
「まさか、オメガのふりでもして、あのバカを」
「いっ、一誠は! バカじゃないっ」
自分で自分の声にびっくりした。恐怖に染まった悲鳴みたいな叫び声はひっくり返って、すごくおかしかっただろうけれど、この足の先から頭のてっぺんまでアルファのオーラを放つようなこの人には失笑もんなんだろうけど、でも、それだけは言わせない。
「一誠は、バカじゃないっ」
「……」
そんなの言わせたりしない。一誠のことは誰にも、とくに元家族には悪くなんて言われたくない。
「あいつはっ、一生懸命にっ」
あんたらの妨害にもめげずに温かいまま、優しいまま、ケーキを作って笑ってる。
「……はっ、笑えるな」
「っ」
「ガラクタ同然のオモチャが、主を守ろうと躍起になってる。滑稽だ」
一誠の家族だった男は唇の端を吊り上げ、目を細めて、喉奥だけで笑いを噛み殺してる。今にも腹を抱えて笑いたいって顔をして、俺を見て、そして、イヤそうに眉をひそめた。
「あのバカが、一誠が自分を好きになってくれた、認めてくれた、だから、一生守ってやる」
「……」
「とでも、思ったか? 想像力のなさというか、みっともないほど浅はかだな」
セクサノイドのくせに、そう言葉にしなくても声が、表情が、俺を罵ってる。
「そして、笑えるほど惨めだ」
「……」
「自分が誰かの代用品だとわかってるんだろう? わかってないわけ、ないよな? そんな顔してるんだから」
「!」
「オメガらしい顔だ。綺麗で、魅力的で、身体も顔も、全てが抱かれることに特化した、作り」
知ってるよ。俺が本物じゃないなんてこと。俺の全部はそういうふうに作られてるって、わかってる。そんなの言われなくたって、ちゃんと自分で――。
「トウ!」
知ってるんだ。俺なんて、ただのガラクタだって。ちゃんと、ずっと、何十年も前から、知ってたよ。だから、こんなあったかくて優しい背中に守ってもらったらさ。
「……何の用だ。縁はもう切れてる」
「……久しぶりだな。何年ぶりだ?」
一誠の背中だ。大きくて、強くて、真っ直ぐな背中。
「トウ、ごめん。お客さんが、外で口論してるって言ってて。遅くなった。ごめん」
「いっ、せ……」
さっきの不細工な俺の悲鳴。
「変わらないなぁ、お前。同じ血が入ってるとは思えない。なんでそんなに一般人臭いんだ?」
その人はさっき俺に向けたのと同じ顔をして、もっと高圧的な眼差しで、上から振りかざすように言葉を投げつけてくる。
「同じ血なんてない。俺は俺だ。あんたらとは縁を切ってる。会いたくもないのはお互い様だろ。そっちこそバカなんじゃないのか? わざわざ嫌味だけ言いにこんな小さな街にまで来るなんて。ずいぶんと暇なんだな」
「……」
「冷やかしをしにわざわざご苦労さま」
行こう。そう言って、一誠が俺の手を取った。さっき、その人が掴んだのと同じ手首をそっと、優しく、大事に掴んでくれる。俺は、もっと乱暴に強くされたって壊れたりしないのに。人よりも何倍も頑丈にできてるのに。
「おい、それ、オモチャだろう? 大昔の古びたオモチャに、まさか、お前」
それでも一誠は俺を大事にしてくれるんだ。セクサノイドとか、人とかオメガとか、アルファとか、そんなのひとつも関係ない。優しくするのは、好きだからだって、大事にするのは、愛しいからだって、一誠が俺に教えてくれた。
「オモチャだって思えるあんたが可哀想で仕方ないよ」
「は?」
「きっと、一生わかりあえない。だから、縁を切ったんだろ? 何をしに来たのか大体察しがつく。雑誌に載って、評判もいい。何かに使えそうだとでも思った? あいにく、俺は、高尚な理由でケーキを作ってるわけじゃないんだ。あんたらが望むような道具にはなれそうもない。悪いけど」
臆病で、怖いことが大嫌いな俺を甘やかして、大事にして、あったかいものを身体の中に届けてくれた。俺は一誠のことが大好きだから、この人からもらったもの全部を無駄になんてしないよ。何も、ほんの欠片だって無駄にはしない。
「行こう……トウ」
だから、嬉しかったんだ。一誠にこうして助けてもらってさ。前だったらきっと「俺なんかのこと」って戸惑って、怖がって、この手さえも振り払ってひとりで部屋にこもって小さく丸まってた。怖いのが通り過ぎてくれるのをじっと待ってた。
でも今は違うんだ。
「ごめん。まさか、店に来るなんて思ってなくて」
「俺は平気」
「平気なわけないだろ」
丸まって、小さくなることでしか怖さから自分を守れなかったけれど、今は違う。こうして抱き締めてくれるから、大丈夫。ぎゅって、その腕が俺のことを守ってくれる。
「俺が、平気じゃない。トウが傷ついたら、俺はっ」
「平気だよ。大丈夫」
一誠が俺を守ってくれるから、俺もこの腕で精一杯背中に手を伸ばすんだ。一誠のことを守るために。
「トウ……」
「平気だよ。一誠がいてくれるから」
怖かったけど、痛かったけど、でも、もうこの腕の中で笑ってる。ちゃんとほら、無理してないのに笑えてるだろ?
「平気。なっ、それよりさ、店、すごいじゃん! びっくりした。店まで続いてるぎょうれ……ぁ」
「トウ? ……ぁ」
すごい大繁盛。行列は歩道のほうまで続いていて、だから、ここにもお客さんは並んでてさ。ケーキ屋の主が血相変えて飛び出して走ってどっか行ったと思ったら、なんか、抱き合ってますけど? って、一部始終をお客さんが眺めていた。
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