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第34話 一目瞭然で
一誠の家族だった人。名前は、一誠が家族でもなんでもない、赤の他人だからって教えてくれないからわからないその人は、あの日以来、俺の前に姿を現していない。縁を切ってるんだし、向こうは落ちこぼれの自分のことは臭いものとして蓋したいと思ってるよって、一誠は笑ってた。たまたま通りがかっただけなんだろうって。
それでも、まだ警戒しているのを知ってる。
俺が自分のアパートに帰るときは必ずついてくるから。疲れてるのに、一分だって多く寝て疲れを取って欲しいのに。俺が一誠を思うのと同じように、自分も俺のことを思ってるんだよって笑ってた。
今日は朝の開店準備を手伝って、これから仕事。で、帰って来て、できたらまた手伝いたいんだ。一誠の店を。
「今日もお疲れ。ぁ、いいよ! トウ! 掃除は俺がするから。ほら、もう行かないと」
「いいよ、平気。自転車だし」
掛け持ちってやつになるのかな。あっちやって、こっち手伝って。疲れてるけど、でも疲れてない。いや、心地良い疲れなのかな。動き回ってはいるけど限られた小さなスペースの中だから別にそこまで大変じゃないんだ。ただ、心配なことがひとつあるけど。
「バイトとか、雇わないの?」
勝手に声が恐る恐るって感じになってしまった。
一誠のところでバイトする人はきっと好きになる。一誠のことを好きになってしまう。それはイヤだけど、こんなに忙しい毎日を送ってたら、身体のことも心配だ。手伝うけど、でもそれはずっとじゃなくて、一日のうちに数時間だけ。仕込みの時ともなれば、俺にできることなんて卵を割るのと、流しの中を綺麗にしておくことくらい。
だから、本当はもうひとり接客のバイトを雇ったほうがいい。
「んー、そうだなぁ」
俺のガキくさい独占欲なんて無視して、一誠の身体のことを。
「俺、ワガママなんだ」
「は? どこが」
「顔は可愛い子がいい。美人でもイケメンでもなんでもいいけど」
なんだそれ。可愛いのがいいのか、美人なのがいいのか、イケメンって、男のバイトってことか?
「でも、やっぱ可愛い子だな。笑った顔が飛び切り可愛い子。それで襟足は短くて」
「……」
「背は俺より低いほうがいいかなぁ。あ、あと、すぐに口をへの字に曲げる子、それと、ココアが好物な子」
「なっ……」
「けっこう他にも条件あるんだよ。だから、ちょっと難しいかな」
次はもしかして甘い蜜香が漂う子なんて言うつもりかよ。そんなの。
「トウがいい」
「!」
「お店、一緒にやるんなら、トウがいいよ。でも、トウには、やりたいことをやって欲しいんだ」
掃除の手を止めて、一誠の視線が上を向いた。お店の壁んとこ。もう季節的には終わってしまった、コスモスの絵。筆で描いた、最後の、絵。
あれ以来、筆は握ってない。もうなくなってしまった筆。それしか持ってなくて、今更新しい筆を買ってまで絵を描きたくはない。描いてるよ。看板に、チョークで美味しそうなスイーツをいつも描いてる。
「それに!」
一誠の声がパッとスイッチにみたいにこの部屋の空気を切り替えた。
「そのうち、今の忙しさも落ち着くさ」
「そんなのっ」
「雑誌に載って、一瞬パッと盛り上がったけど、そこからまた次に食べに来てくれる人はそう多くないよ。へんぴな場所だし、駅前にだって美味しくて可愛いケーキ屋はたくさんある」
「でもっ!」
「儲かりたいとかじゃないからさ。まぁ、赤字じゃ困るんだけど。でも、ケーキを作るのはそのためじゃないから」
「……」
絵を楽しみたい。そう思った俺みたいに、一誠はケーキを作りたいだけなんだ。子どもの目線の高さに合わせた段には可愛くて楽しいケーキを、大人向けのは高いところに。
「って、ほら、トウは仕事! 遅刻するよ」
「あ、うん」
「いってらっしゃい。はい……朝ご飯」
「!」
話したんだ。食べる、っていうやつ。自分で感動したから。一誠の言葉に、その存在にすごく強くしてもらえたから、伝えたかったんだ。俺、変われたよ、って。
「無理はしないで。でも、頑張って」
「う、うん」
一誠が俺にくれる言葉で俺は、できている。
「好きだよ、トウ」
その言葉とキスが俺を、強くしてくれる。
そっと触れるだけ。でも、きっと俺からはまた好きと伝えたい気持ちが溢れて甘い香りとなってお店の中に広がった。一誠にだけわかるケーキの甘い香りに混じる俺の蜜の香り。香った? 触れ合っていた唇が離れたら、深呼吸をして、漂ったはずの「好き」の混じる空気を胸いっぱいに吸い込んでくれた。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
お店の外に出たら、とても清々しい空が広がっていた。いくら手を伸ばしても触れることはできない大きくて高い空はもうすっかり冬の色をしていた。
「おはようございます」
今日は少しシフトが不思議だったんだ。日勤、夕日勤、夜勤が順番でやってくるのが普通なのに、今日は日勤、夕日勤、そこからまた日勤に戻った。だからいつもなら俺の後に入ってくる、あまり顔を見たことのない人に俺からバトンを渡すんじゃなくて、俺がその人からバトンを、出庫のリストを手渡された。
「あ、おはようございます……」
ほら、この人もシフトが少し変わってるからびっくりしてる。
「これ、出庫のリストです。自分がやる分終わってます」
「はい。ありがとうございます」
「お疲れ様です」
いつもどおりの交代連絡を終えて彼はいつもどおり背中を丸めながら俯いて倉庫を出ていった。
彼が扉を開けた時だった。
おっと、わ、ごめんなさい。
そんな感じ。柔らかくて弾むような明るく、優しい声が聞こえてきて、リストに視線を落としていた俺は、ハッと顔を上げた。
そこにいたのは全く知らない人。薄い色素の髪色は絹糸みたいに綺麗で、その人が顔を上げてキョロキョロするだけでも楽しげに揺れている。キラキラと輝く瞳はとても大きくはっきりとした顔立ち。スッと伸びた鼻、少し薄めの唇はほんのり貝殻のピンク色をしてて、艶があってとても綺麗だった。
華奢な肩、腰、抱きしめたら折れてしまいそうなほど繊細な身体のライン。
とても魅力的だった。
「初めまして。僕は白井類(しらいるい)です」
「……」
すぐにわかった。
「今日一日宜しくお願い致します」
オメガだって。本物の、魅惑の、オメガ……だって。
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