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第36話 番

 なぜか類っていう綺麗なオメガは俺から感じるココアの香りを気に入っていた。帰りにココア買って帰りたいって呟いていたくらい。俺はそれを聞く度にビビって、そして、必死で隠した。だって、一誠のいれてくれるココアは特別な味がする。最高に楽しかった遊園地で飲んだココアも、自分で初めて作ったココアも勝てなかった。すごく特別で、どこにもないスペシャルな香り。  俺のために作ってくれるココア。  だから、大事な宝物を他の子にとられてしまわないようにって、自分の背中に一生懸命隠す子どもみたいに。なのに、隠せば隠すだけ、彼はそれを覗き込もうとしてくる。無邪気に笑って、別に俺を脅かすつもりなんてないんだろうけれど、笑顔で話しかけられる度に俺は身構えていた。 「おかえり」  そんな一日だったから、仕事が終わる頃にはヘトヘトだった。帰り際、運転手が迎えに来てるからって慌てながら、彼は、すごく勉強になりましたって、素直に笑って、セクサノイドで下っ端の一作業員の俺に深く頭下げた。全てを持っているからこその豊かで優しい心に、俺の心の奥底は凍りついて冷たくなった。人は嫌いだったけれど、それは誰かひとりを、じゃなくて、全てのだったから、こんな。 「た、ただいま」  こんな明確な嫌悪は初めてだった。  ――ココア好きなの? 僕もすごい好きなんだぁ。甘くて美味しいよね。コーヒーは苦手でさ。だって、苦いでしょ?  そう言って笑う彼のことが、とても、すごく、大嫌いだった。 「ごめん、トウ。疲れただろ? 部屋で休んでなよ」  一誠はそんな俺の険しい表情を別の意味に捉えて、無理をさせてるって気遣ってくれる。俺に優しくて、大事にしてくれる。お店の手伝いをしてから、自分お仕事もして、なんて疲れさせてしまってると思ってるんだ。  そんなことないよ。  俺は一誠の手伝いができて嬉しいんだ。少しでも役に立てることが嬉しくてたまらない。仕事だって、今はちょっと充実しててさ。最近は考えたりして、こんなふうにやったらどうだろうとか、こういうのはこれでいいのかなとか。前までは何も考えず、ただこなしてるだけ、本物のロボットみたいだったけれど。 「! ち、違う! 疲れてないっ」  慌ててクビを横に振った。 「トウ?」 「平気。疲れてない。お店手伝うよ。今日もたくさん売れたんだ。もうほとんど残ってない」  見れば、ショーケースの中はパラパラ残っているだけだった。あとは閉店の時間まで、お客さんが来るかどうか待ちながら、少しずつお店の片付けを進めていくだけ。 「あぁ、雑誌効果はすごいね。トウは? 仕事、どうだった?」  心の中がぐちゃぐちゃだったよ。せっかく楽しくなってきたのに、今日は楽しくなかった。 「トウ?」  一誠の手が優しく頬に触れてくれるとそれだけですごく幸せな気分になれるのに、今日は不安が募る。  あの人に、お前はニセモノで、オモチャで、そして、目障りだと罵られるよりも、あの天使みたいなオメガが怖くて怖くて、悪魔みたいに思えて、一日中身をすくめてたから、とても疲れた。  すごく綺麗な笑顔のまま俺の心の中を土足で踏み荒らされていくみたい。ココアの香りがすると言われる度に、彼のことがどんどん嫌いになった。 「トウ?」  だって、一誠にも本当はどこかにいるんだ。  あんなふうに魅力的な運命の番が。可憐で美しいのに、とてもやらしくて卑猥で、狂おしいほど魅惑な運命の相手が、世界のどこかで一誠に会えるのを待ち侘びている。  知ってるよ。  ニセモノオモチャの自分には、一誠にも、あの類って人にも、待っているものなんて、ない。運命も本能もない。そんなものの前には俺なんて、ただの。 「トウ、今日は一緒にお風呂に入ろう?」  ただの、ガラクタだ。 「それで、一緒に寝て、ほら、この前、お揃いで着ようって買ったパジャマを着て、抱き合って寝よう」  一誠の番はどんななんだろう。 「毎日、たくさん手伝ってくれてありがとう」  その人を目の前にしたら、その瞬間に俺のことは忘れちゃうのかな。知性も理性もあの強烈な熱量の前にはあっという間に溶けて消えるのかな。  こんなに大事にしてくれて、こんなに触ってくれるけれど、運命と繋がった瞬間、俺のことなんてどうでもよくなって、触りたいなんて思わなくなる?  番を見つけたら、もう、俺のこと「物」にしか見えなくなっちゃう、のかな。 「ココア、今、作るから」  もうココアを作ってくれなくなるのかな。 「……いらない」  わかってたのに。俺はただのオモチャだって、俺はちゃんと知ってたのに。誰にも一誠を取られたくなくて、あの天使がココアを好きだと言ったから、必死に抵抗したんだ。  このココアは特別なんだ。誰にも、あげない。 「今日はココア、いらない」  あの天使になんて見せたくない。だから、大好きなものを全部自分の背中に慌てて隠した。大好きなココアが俺から香って、あの天使に見つかってしまわないように、首を横に振った。  今日一日、ただ、今日一日が終われば、あのオメガは自分がいるべき高いところに戻っていく。そしたら俺のことも、一誠のココアのことも全部、その高いところからじゃ探し出すことすらできなくなるはずだ。  それだけを思って、心配してくれる一誠に笑って、小さく背中を丸めながら職場に来た。  そして向けられる天真爛漫な笑顔に心が擦り減っていく。  ココアは昨日の夜から飲んでないから、きっと香らないだろ? あとは夕方までこの人の子守役を我慢してこなせばいいだけ、ずっとそう思いながら時間がすぎることばっかり祈ってた。 「昨日今日とありがとうございました」 「……いえ」  そんな一日がようやく終わる。天使がニコッと笑って、首を傾げた拍子に明るい色の髪が弾んで揺れてた。 「すごく勉強になりました。こういう大変な作業をしている人がいるからこそ、企業として成り立っているんだと学べて、とても貴重な二日間でした」  それはどうも。棘を含んだそんな返事しかできそうにないから、無言で口を結んでた。 「さぁ、類さん、お疲れ様」 「はい」  あいつが迎えに来ている。迎えに来て、俺の顔を見て、満足したのか笑っている。とても気分が良さそうで、俺はもっと気分が悪くなっていく。 「あ、ごめんなさい! あの、君から香ってたココアって、どこにいけば買えますか?」  胸のところがぎゅっと捻れるように痛い。買えない。やだ。教えたくない。この人はココアのことを話してるのに、まるで、一誠を買おうとしてるみたいで、一誠のことを俺から奪い取ってしまうように感じられて、何も答えたくないと口を真一文字に結んだ。 「あ、でも、今日はココアの香りしなかったね」  そう、だから、これはあんたの気のせいだ。なんとなくそんな香りがしただけだから、気にせず自分のいるべきところに帰って欲しい。今すぐ、一刻でも早く。 「その代わり、すごく美味しそうなパンケーキの香りがした」 「!」 「君は美味しい香りがするね」  一誠が今朝、それ食べてた。バターの香りがしてすごく美味しそうだった。昨日からココア飲んでなくて、あの甘さはもう俺の中で必要不可欠っていうか、飲むと安心できたから。一誠のパンケーキをじっと見すぎてた。食べたそうって思ったみたいで。一口食べる? なんて聞かれて、慌てて断ったくらい。  その時の香りがまだしてる? 「し、してません。美味そうな香りなんて」 「可愛い顔してるし、お菓子みたい」 「違いますっ!」  可愛い顔は作られたから。お菓子みたいだとしても、俺はそのお菓子を一口だって食べられない。  可愛いのもお菓子みたいなのも、全部、あんたのほうだ。どうしても声が大きく乱暴になってしまった。びっくりさせた。わかってるよ。この人はなんも悪くない。俺にも親切だし、分け隔てなく、本当に差別も区別もせずに接してくれた。でも、それが余計にイヤだった。本物の天使みたいに優しくて良い人なのに、その優しさが俺を踏み潰していく。 「気分を悪くさせてしまったらごめんなさい。仕事、はかどらなかったですよね」 「……」  ほら、こうして、俺のことをぺしゃんこに潰すんだ。 「類さん、ココアって?」 「あ、うん。彼から甘くて美味しそうなココアの香りが昨日してて、それで、今日はまた別のパンケーキの香りがしてるから、なんだかとってもふわふわしちゃって。変だよね。彼もきっと変だって」  この人の優しさが俺にはひどく痛くて苦しい。 「あぁ……それは、ケーキ屋だ」  そして、今度は竦みあがった。 「ケーキ?」  やめて。 「そう。最近雑誌に載ったよ」  言わないでよ。 「へぇ。よく知ってるね」  なんで、言っちゃうんだよ。 「案内してあげようか。それにほら、彼らの仕事の邪魔だ。もう帰らないと」  待って! ちょっと、ねぇ、待ってよ! なんで、その人を一誠のところに。 「うん」 「先に行ってて。俺は彼にお礼をしなければ」 「あ、はい」  天使はくるりとターンをして、上の階へと向かってしまう。エレベータは地下にいる天使を急げ急げって、地上の高いところへ戻そうとする。ダメなのに。今は、まだ、ダメなのに。ねぇ! 待ってってば! 「あれの番かもな……」  やだ。待って。 「俺にはお前からココアの香りも、パンケーキの香りもしない。美味そうな香りなんてこれっぽっちも感じない。だが、そう感じたのなら、それは」  一誠の香り? 「もし、類があれの番なら、それは我が家にとってとても利用価値がある。お前みたいなポンコツがまさかそんな働きをしてくれるとは」  やめて、待って、一誠のとこに行かないで。お願いだから。一誠は俺の――。 「……」  俺の、好きな人なんだ。  わかってたよ。この世界のどこかには一誠の番がいるって。運命の人がいるって。でも、一誠が俺のことを好きって言ってくれて、すごく嬉しかったんだ。  俺も、一誠のこと好きだったから。 「……」  そんな小さな「好き」をひとつずつ持ってたって、本能、運命、そんなものには勝てっこないってわかってた。それでも、やっぱり好きになった。敵うわけがないって知ってても、好きだったんだ。  出会った瞬間、我を忘れて、身体の奥深くで繋がって、もう離れることのない番。それはセックスとかだけじゃなくて、生き物として繋がるべき存在でさ。生き物ですらない俺にとっては、到底手が届かないもの。 「お疲れ様です。交代……」 「っ」  次の人が入ってきて、慌てて立ち上がった。 「す、すみません、あの、仕事」  もうほとんど終わってる。後は説明して、引継ぎして、そしたら帰って大丈夫。って、俺はどこに帰っていいんだろう。 「なんか、ありました?」  一誠のところ? には、もう行けないのかな。あぁ、でも、行ったら、悲しくて壊れられるかもしれない。  あの時、セクサノイドが描いた絵に価値はないといわれても壊れなかったけれど、きっと、今回は壊れるだろうな。  ひどい悲しみは処理し切れなくて負荷になる。そしてその負荷はやがて重大な問題となって、俺は壊れることができる。そう教えられてた。  ひどいだろ? そんなことにならない限り壊れられないなんて。  実際はさ、セクサノイドの初期化、なんだって。セックスの相手をするラブドールだから、擬似恋愛ができるんだけれど、その擬似っていう仕事をする必要がなくなったら、飽きたり、本物の番が現れたら、その時悲しみで初期化される。俺の人格は消える。 「なんも、ないです。すみません。ぁ、俺、そしたら、もう上がります」  人格が消えたら、これはただのお人形だ。大昔だったら、そこに新しい人格をインプットされるけれど、今はもうそれはないから、きっとそのまま廃棄だろう。 「あの、三枝さん」 「……」 「俺、最近のあんた、好きでしたよ」  リセットされた空っぽの俺はそのままゴミ箱行きだ。 「なんか少しずつ変わっていくあんたを見てるの、楽しかった……です」 「……ぇ」 「すごくいい感じに変わってた。だから、諦めんな」 「……あの」 「そこまで何かを変えられるって、すごいと思うから。見せてください」  見せるって、何を? 「俺にも、希望を」  見せてくださいって、顔を下げた彼の首筋には俺と同じ、セクサノイドの認識番号が刻まれていた。

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