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第37話 バイバイ
ずっと言えなかったけど、俺も三枝さんが作ってくれたんだ。トウの次が俺だよ。三枝さんはよくトウのことを話してくれた。もしかしたら、人間を作れたかもしれないって、そう嬉しそうにしてた。
トウは人が嫌いなんだって、教えてくれたよ。何かを嫌いになれる、それはとても大切な感情だ。そこから怖がったり、嫌がったり、拒否することを覚える。拒否はとても強い意志がないとできないこと。受け入れて、そのまま頷いて肯定してしまうほうがよっぽど簡単。
でも、トウは嫌いという感情を持っている。その感情を持ったまま、優しく、そして、強くあって欲しい。そしたら彼は本物の人間になれる気がする。恨まれてしまうかもしれないけどね。とても辛い思いもするだろうから。
僕はついに人を作れたのかもしれない。
そう、トイチに話して聞かせていたんだそうだ。十一番目、俺の次に作られたから、トイチ。
トウが本当に人になれたのなら、もしなれたのなら、自分だって――そんな期待を胸に抱いて俺を探してくれていた。最初、人を怖がる俺にびっくりしたと言ってた。セクサノイドなのに、ラブドールなのに自分の主になるかもしれない人を毛嫌いしていて、三枝さんの言ったことは本当だったんだって。
トイチは俺の知らない三枝さんの話を少しだけしてくれた。
『ねぇ、トイチ、僕はアルファなんだ。でも、種無しでね……子孫を作れなかった。だから番も作らなかった。作れなかった。子どもが欲しくて、番が欲しくて、寂しくて、人形師になったんだけれど。矛盾しているよね』
人形師に命は作れないのにね――そう言って、三枝さんはトイチを作った後、もう人形を作らなくなった。自分の中で何を作り出したいのかわからなくなってしまったんだと、トイチが話してくれた。
だからお願いだ。どうか人になって。そして、あの人が作り出したものは命を持っていたと、見せて欲しい。彼の絶望を希望に変えて欲しい。
そう切なげに言っていた。
トイチはきっと、三枝さんのことを。
三枝さんは、たしかに生み出したかったのもあるかもしれない。子孫が作れない自分でも命に変代わる何かを作りたかったのかも。でも、俺は思うんだ。あの人はただ、シンプルに誰かに愛されたかったんだ。番を作れなかった彼はただ愛されたかったんじゃないかな。愛されるって、好かれるって、ものすごく幸せなことだから。
幸せになりたかったんだと、俺は、走りながらそんなことを考えていた。
「!」
この角を曲がれば、そこには俺が描いた看板がある。一誠のケーキ屋はもうすぐそこ。
「……」
ふとそこで鼻先を掠めた甘い香り。これは……って思って、もう一歩先に足を進めたら、もっと強く香る甘い甘い蜜の香りがした。こんなところまで香っていた。
本物のオメガの蜜香。
こんなに甘いんだ。毒々しいほどに甘くて、むせ返りそうになるのに、胸いっぱいに吸い込んでしまいたくなる甘美な香り。
一誠とあのオメガは、番なんだって、この蜜香でわかる。
俺がこの蜜香に気が付けるってことは、まだ、番になってない? 今、行ったら、まだ間に合う?
でも、それは間に合っていることになるのかな。そう思ったら、あんなに急いでいた足が止まった。この先に進むことを身体が拒否しようとする。だって、まだ番になってないからってなんなんだよ。どうせ、運命の相手なのなら、タイミングとか関係ない。結局は番になるだろ。もう出会ってしまった時点で他のものなんて目に入らなくなる。それまで持っていた恋とか理性なんて、オメガとアルファの運命の前じゃ、笑ってしまうほど簡単に吹き飛ぶんだ。それだけ激しい欲情に襲われるからこそ、俺たちは作られたんだ。そんな激しい欲なんて、ベータには、番に出会ったことのないアルファ、オメガにはとても興味深いものだから。
だから、今、行ったところでもう間に合ってなんかいない。ただ、一誠があのオメガに夢中になるところをも見てしまうだけ。
それが見たくなくて、足が止まった。
あんなに壊れたかったくせに。あんなに、もう早く終わりにしたいと願っていたはずなのに。
「……い」
今、こんなに、自分が終わってしまうのが怖い。もっとたくさん味わい。
「せい……」
もっと、好きでいたいよ。
「……一誠」
君のことを好きでいたい。
数日前に俺が描いた看板。もうこれできっと描かなくなる。いや、もうこんな看板なんて必要ないんだろうな。番である、そのオメガはお金持ちらしいから、店をもっとさ、大きな道んところに、もっともっと大きな建物に変えてくれる。味は最高なんだから、店構えさえすごくしてしまえば、看板は必要ないほど繁盛するさ。雑誌ひとつに掲載されただけで喜んでた頃が懐かしいってなる。あっちこっちで評判のケーキ屋になる。
俺はそんな一誠の記憶に残れるのかな。あの雨の日、悲しそうに、ほら、ちょうど今通り過ぎたゴミ置場の前に佇んでいた寂しいラブドールとして。
あと、数歩。扉を開けたら、何が見えるんだろう。あのレースカーテンで隠された中で、今、一誠は何をしてるんだろう。
開けた瞬間、甘い香りに溺れるかな。壊れる、のかな。
――少しずつ変わっていくあんたを見てるの、楽しかった。
壊れないって、信じたい。俺たちが交わした「好き」はとても愛しくて温かった。だから、この好きも、俺も、壊れないって信じたい。
もし、たとえ、次の瞬間、悲しみで俺の機能がぶっ壊れたとしても、その壊れる時まで恋を。
「……一誠」
信じたいんだ。
壊れて、全部がなくなって、俺の内側が空っぽになるまではずっと、一誠のことを好きでいたい。大好きだと思いながら、死にたいなぁって思ったんだ。
「……」
お店の扉を開けると、目の前には類がいた。オメガで、天使で、一誠の運命の相手がいて、一誠の懐、俺が一番好きなところにいて、こっちに振り返った。
一誠は、そこに類がいることを、許していた。
大好きだよ。一誠のこと、すごく好き。
あの雨の日、真っ赤な傘をくれた変んな奴。こんないやらしいオモチャのことを大事にしてくれて、笑いかけてくれて、甘くて優しいココアをくれた。何十年もひとりぼっちでいた俺の中をたくさんの優しいものと、あったかいもののと、嬉しいっていう気持ちでいっぱいにしてくれた。
看板を描いてあげるの、好きだった。遊園地が楽しかった。あんなに楽しい場所だったなんて知らなかった。でも、きっとあそこが楽しくて素敵な場所だと思えたのは、一誠が一緒だったからだ。一誠とじゃなくちゃどこも楽しくなかったよ。一誠がいたから、全部、場所も時間も、幸福がつまってた。
あぁ、どうしよ。壊れて、初期化されたら、今、俺の持っている全部が消えてなくなるんだよね。そしたら、あの窓際にあるミントの小さなプランターは枯れちゃうかな。一誠のところに仲間入りさせてくれないかな。俺の代わりに、あの小さなミントの葉だけでもそばにいさせてくれないかな。
「一誠」
ねぇ、三枝さん、俺はオモチャだったけれど、気持ちを、感情を持てた。胸を躍らせてはしゃいだりできたよ。ないはずの心臓を跳ねさせたよ。もしかしたら、本当に生き物になって、心臓がそこにあるのかもしれないって思えるくらい、一誠のことを思うと胸が苦しくて仕方なかったよ。
「……い」
一誠のこと、壊れる瞬間まで大好きでいられて、ちょっと嬉しい。さようならをもうすぐしないといけないけどさ、でも――。
「トウっ!」
ハッとするほどたしかな声が俺を呼んだ。
「トウ」
そして、手首が熱くなる。これは――。
「トウっ? 大丈夫? 立ち眩み? 疲れてるんだろっ、今、ベッドに」
これは、一誠の手だ。そして、目の前には俺のことを心配そうに見つめる一誠がいた。
「いっ……せい?」
「トウ? 大丈夫か?」
俺だけを見つめる、一誠がここに、いた。
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