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第38話 何よりも強く

 ヒート、発情期の熱量はものすごいものがある。オメガとアルファは引き寄せられるように、互いを欲し、生殖本能に突き動かされる。抗いようのない本能に全身が染まってしまうその様はまさに「運命」という言葉に相応しい。 「トウ」  誰も、何も、邪魔することはできない。 「いっせ……ぇ……あ」  運命の前では何もかも消し飛んでなくなってしまう。それほどに激しい熱。 「トウ、泣いて」 「な……ん、で?」 「トウ?」  店の中はむせ返って呼吸もできないほどの蜜香が充満していた。俺の出す作られたヒートに、作られた蜜香じゃなくて、あの天使みたいなオメガが出してる本物の甘い香り。一誠の運命の相手が出した甘い蜜の香りがこの中にこんなに詰まってるのに、なんで? 「一誠、なんで、そんな、普通なんだよ」 「……」  俺にも感じられるのはまだふたりが番になってないから? それとも、俺がオメガを模したセクサノイドだから? フェロモンを感知できるとかなのか? ねぇ、一誠とあの人はもう番、なの? 「なんでって……」  綺麗で可愛くて、全てを持っている豊かで優しい天使。  考えなくたってわかる。ただ俺は気がつかないフリをしていたんだ。だって、一誠のこと好きだから。誰にも渡したくないから、知らないフリをした。  お似合いだ。  誰にでも優しくて、温かくてカッコいい一誠の運命の相手は、豊かな心と、癒し笑顔を向けてくれる可愛いオメガが、ほら、ぴったりだ。 「なんでって、好きな人はトウだからだろ」  誰も入り込めるわけがないほど、お似合いなふたり。 「は? 何、言って、だって、その人」 「そうだよ。なんでっ? 僕のアルファでしょ? 僕、ずっと会えるのを待ってたんだ。どんな人なんだろうって。その子から香ってきたココアの香り、すごく甘くて美味しそうだった。食べたくて仕方なくなった。どうしても口にしてみたくて、ここに来たんだ。こんなに欲しいのは、君が僕の運命のアルファだから、そうでしょっ?」  天使が大粒の涙を瞳に溜めて、心臓んとこをぎゅっと握り締めながら、切なげに訴える目の前にいる番になるべく人を求めて、涙を零した。 「君には申し訳ない……」  その涙は、蜜みたいにきっと一誠の本能をひどく突き揺らすのに。 「……な、なんでっ」  その涙を拭うこともせずに、ただ、一誠を求めて泣いてるのに。 「好きなのは、ここにいる、トウ、だから」  その言葉にもう一粒、もっと大きな涙が白くて柔らかそうな頬を転がり落ちた。 「……でも……僕が、番……なのに」 「そうかもしれない」  一誠の言葉に、天使の喉奥がひゅっと微かな音を立てる。 「きっと、運命なんだと思う」 「ならっ!」 「でも、その運命にでも吹き飛ばせないくらい、今、トウが好きなんだ」 「……」  一誠の手が俺の手首をぎゅっと握ってくれた。 「本能よりも強く、今も、トウしか好きじゃない」 「!」 「ごめんなさい。トウと過ごす時間は俺にとって、一番の幸せなんだ。すごく満たされる」  それは性欲とか生殖本能よりももっと優先された、恋。 「だから」 「やだ! そんなの! だって、僕が番なのに! 運命の相手は僕なのに! ずっと待ってたんだ!」 「申し訳ないって思います。でも、トウが好きなんです」 「そんなのっ!」 「帰ろう。類さん」  きっとものすごい蜜香。アルファにはきつすぎるんだ。一誠の兄弟はその香りに眉根を寄せて渋い顔をしてる。 「こんな蜜香の中でも平気な顔をしてる。何を言っても無理だ」 「っ」 「そいつはできそこないのアルファなんだよ。それこそ君には似つかわしくない。帰ろう。ここじゃない、場所へ」 「……」  天使はその言葉に顔をあげた。一度、こっちへ、俺と、隣にいる一誠を見て、顔をしかめるとか、眉をひそめるとかじゃなく、ただ悲しそうに瞳を潤ませたけれど、何も言わなかった。  たぶん、俺の、わずかな蜜香を嗅いだんだ。今、香ってる、この人を渡したくないっていう、ニセモノが垂れ流す小さな蜜のにおい。  華奢で愛らしい肩を落とし、項垂れて帰る天使の隣で、一誠の家族だったそいつが睨んでいた。  ポンコツ――そう言いたそうな顔をしていた。 「……ポンコツでよかった」  扉が閉ざされて、一誠がその扉に向かって、そう呟く。 「一誠」 「トウと、出会えたんだから」  そして、俺を見た一誠は笑ってた。 「家を追い出されて、母に苦労をかけて、それでもやりたかった夢を叶えようとすれば、それも邪魔されて。小さな、ひっそりとした場所に作るしかなかった。悔しくて、悲しくて、母にも申し訳なくて、でも、俺は俺でいたかった」  折れてしまいそうだったけど、折れなかった。自分のことをまだ信じたかった。それは、まるで、俺がずっとひとりで抱えてきたものそっくりだ。負けてしまえば楽なのかもしれない。お前はこうだろって言われたままに頷いて、促されて、その中に混ざってしまえば、苦しい思いも悲しい気持ちも、傷つくこともない。でも、だって、俺はそれをしたくない。抗いたいって、思ったから。 「よかったって、今、心底思ってる」 「……い、せ……」 「君に出会えて、今まであった何もかもに笑って、ありがとうって言いたい」 「……俺っ」  俺に心臓はない。俺は人じゃない。でも、ねぇ、一誠。 「俺、生まれてきて、よかった」  お互いに、今、そう思って、そう囁いた。 「一誠っ」 「君が、とても、好きだ」 「っ」 「大好きだよ」  俺は声がでなくて、しゃくりあげるばっかでさ、喉んとこに感情が詰まってて、何も言葉にできなかったけど。でも蜜香が変わりに伝えてくれる。 「やっぱ、君はごちそうだ」  大好きだよ。ずっとずっと大好き。たくさん愛してる。君は俺の何より愛しい大切な人だよ。この想いは運命よりも、本能よりも強いんだ。ねぇ、とても、大好きだよ――って、溢れて零れて溺れそうなくらい蜜香が一誠に告白をしていた。大事な気持ちを大事な人に、何もせかされることなく、丁寧に、ゆっくりと伝えていた。

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