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最終話 愛で生きている。

 三枝さんは笑った顔が悲しそうな人だった。あまり身なりを気にする人じゃなくて、ビシッとしたらそれなりだったと思うけれど、本人は好んでだらしない格好をしていたのかもしれない。ネジが緩んでいる眼鏡はいつだってズルズルと下がってくるから、話ながら、何度も指で押さえていたのを覚えてる。髪だってボサボサで、服もしわくちゃ。眉尻を下げて、申し訳なさそうに笑っていた。プログラムをさ、頭ん中に入れちゃえば簡単なのに、あの人は色々なことを俺に一つ一つ教えてくれたっけ。面倒じゃないのかなって思ったけど、あれはきっとあの人にとって、したくてもできなかった子育ての代わりだったのかもしれない。  出荷される日、見送ってくれた時も、やっぱり、悲しそうに笑ってたと、そう、思っていたけれど。 『幸せになるんだよ……』  でも、どこか嬉しそうにも見えた。  初めて夢であの人を見た。俺は寝ぼけて手を伸ばして、名前を呼んで、そして、目を覚ました。 「……三枝、さん……」  定かじゃない。もう何十年も前のことだし、幸せになるんだよと言われたのに、俺はちっとも幸せだと感じたことがなかったからか、記憶としてとても奥深いところにしまいこんでしまっていた。 「……」  手を伸ばした天井に明かりが差し込んでる。  もう、朝なんだ。  隣を見ると一誠が穏やかな寝息を立ててた。俺はそっと起こさないように、身体を横にして、一誠の寝顔と向き合うような格好に。  かっこいいなぁって。  今はまぶたを閉じてしまっているけれど、ココア色の瞳はとても綺麗で、見つめられるとドキドキする。この薄い唇に何度もキスしてもらった。たくさん、一誠のものだっていう印を全身につけてもらった。  優しい色をした髪に朝日が降り注いでいた。  なんて綺麗なんだろうって、その姿をじっと見つめてた。朝日の触れてる場所がキラキラ輝いて。  絵に…………したい、なぁって、思った。  一誠を描いてみたいなぁって。  初めてだ。人を描いてみたいって思ったの。いつだって、植物とか建物ばかり描いてた。だって、そのどちらも俺にひどいことはしないから怖くなかった。でも、人は怖かったからさ。  一誠を、絵にするのなら、そうだなぁ……鼻筋通ってるから、横向きもいいかもしれない。きっと、綺麗な顔の輪郭は描いていて楽しいと思う。髪も柔らかくて、光が当たったっところとか再現したら、一誠の優しさが表現できるかな。あ、あと、絶対に笑った顔がいい。笑顔。それと――。 「絵、描きたくなった?」 「!」  びっくりした。まだ寝てると思ったから、いきなりパチッと目を開けられて、声を出すのすら忘れて驚いてしまった。 「トウ、寝ないの?」  ほわりと微笑まれて、髪を指先でとかしてもらったら、少しトロンとなったけど、でも、別に眠くない。さっき、スッと目が覚めた。 「待ってて」  頭を撫でても俺が目を閉じないから、もう寝ないと思ったのか、一誠は起き上がって、下だけ履いてる格好のままベッドを出ていってしまった。  その時、背中にたくさんの引っ掻き傷があってちょっと気恥ずかしくて目を逸らしてしまった。いつもよりも深いとこに来て欲しいって思ったから、なんか、ずっとしがみついてた。激しく突き上げてくれるのが嬉しいけど、その激しさに身体は上へズリ上がりそうになる。だから、一生懸命に背中に掴まってたんだ。その痕が背中に残ってる。 「これ……」  視線を逸らしてたら、ベッドが軋んで、一誠が乗っかった分、少しだけ揺れた。そして、二人の間に、ラッピングされた和紙の袋がある。  一誠がラッピングしたのかな。ケーキ屋だから、そういう包装も得意で、くるくると淡い水色とオレンジに近いピンク色のリボンが絡まり合うように袋の口のところを結んでいた。 「開けてみて」 「?」  プレゼント? そう思ってリボンをそっと引っ張って解いた。 「……これ」  中から出てきたのは、筆。 「あの日、トウが折って捨てた筆だよ」 「な、んで……これっ」  折ったのに。 「君が寝てる間に拾ってこっそり持ってたんだ。あのコスモスの絵、本当に綺麗だったからさ。絵、やめるのもったいないと思って」  だからゴミ収集車に回収されてしまう前に探して、拾って、こっそり直したんだと笑ってる。毛の質感とか重要なのかと思って、そこだけは残して手で持つところはさすがに接着剤でつけたところでもう前のようにはいかないから、取り替えた。ケーキ屋だから、はけを使うことも多々あって、だから、新品に変えた時の違和感をよくわかってる。だから毛だけは残してくれたんだ。 「トウがいつか、また、ちゃんと絵を描きたいって思ったら、渡そうと思ってた」 「っ」 「って、まぁ、その時に俺が隣にいるかどうかとか、わかってなかったけどさ。だから、渡せてよかった」  なんで、こんなことするんだよ。 「君が絵を描きたいって思った時に、俺が君の隣にいれて、よかった」  あの雨の日なんて、会って、数時間じゃん。何もわからない。ただの気味悪い身元の不確かな怪しい奴になんで、そんな優しいことすんの。 「言っただろ? 君が泣いてる顔を見て、笑って欲しいって思ったって」 「っ」  なんで、俺のこと、こんなに泣かすの? 「それで? 何を描きたくなったの?」  なんで、こんなに幸せにしてくれるの? 「そっ……んなの、決まってんじゃんっ!」 「何? 教えて」  なんで、アルファのクセに、そういうの鈍いんだよ。本当にわかってないんだ。俺が描きたくなったのは何か、本気でわかってなくて、花? どんな花? もしかして、ケーキだったりして、なんて言って嬉しそうに笑ってる。  花じゃないよ。ケーキ、でもない。もう、わかれよ。鈍いな。 「……っ」  そっと、花びらにでも触れるみたいに、キスをした。 「筆、ありがとっ」  泣かせんな。ほら、大粒の涙が零れ落ちて、キスをした時にも落っこちた一粒が一誠の頬も濡らしちゃっただろ。 「どういたしまして」  もう絵は描かないって思った。幸せになんてなれないよって思ってた。人は怖いって思ってた。でも、そんな俺を変えてくれた人。 「んで? 何を描きたくなったの?」 「……」  笑ってる。俺が描きたいものがなんなのか今度はわかってて、それでも言わせようと答えをせがむから、答えてなんてやらないんだ。  答えてなんてやらない代わりに、キスを。  キスをしようと思ったのに、それすら覆されて、キスされた。ふわりと触れて、啄ばまれて、ちょっとだけしっとりと重なった唇に、甘い吐息がこそばゆい。 「君に出会えて、幸せだ」  お互いに同じことを思いながらキスをして、笑ってた。とても、とても穏かな朝日が降り注いで、全部がとても綺麗で眩しかった。 「あ、おばあちゃん、この前のケーキ、お孫さん喜んでた?」  誕生日にとうちの店のケーキを買っていったおばあちゃんが満面の笑みで頷いた。とても喜んでくれたんだって。巨峰を贅沢に使った葡萄のケーキ。ロウソクは数字でかたどったものもあるけれど、おばあちゃんは本数多いと楽しいからって、お孫さんの年齢の数のロウソクを選んでた。 「ふふふふ。とっても」 「よかったぁ」  カウンターの中からニコッと笑うとおばあちゃんも笑ってくれた。 「一誠のケーキは世界一だからね」 「いつも素敵なケーキをありがとう」  あったかい笑顔がお店に溢れる。  お店の場所は相変わらず、見つけにくくて、入りにくくて、そして、ゴミ置き場が目の前にある同じ場所。建物だって、小さなまま。小さくてこじんまりとしたケーキ屋さん。  あれ以来、一誠の家族だった人も、運命の番であるはずの類も現れない。  ――もう来ないよ。そもそも縁はすでに切れてるからね。  一誠はそう言って笑ったきり、もう彼らの話はしなくて、彼らの姿を俺が見ることもなかった。 「トウくんはいつまでたっても可愛いわね」 「あはは、セクサノイドだからだよ」  俺が人じゃないってことはこの辺じゃけっこう知られてる。自分から言ったんだ。セクサノイド、ラブドールですって。だって、人と一緒にいたら、必ずどこかに違和感が生じるだろ? 食事中や、見た目も。何せ歳を取らないんだから。 「ううん、そうじゃないのよ」 「?」 「おばあちゃん、トウはそういうの鈍いからちっともわかってないんだよ」 「一誠!」  横からひょこっと現れた一誠におばあちゃんが歓声をあげた。出会ってから十年、一誠は渋さが混ざって、前よりも幅広い年齢層に人気でさ。こっちは心配事が増えただけ。歳を取って枯れるんじゃなくて、なんか色々増してるって、反則な気がするのに、そう苦情を訴えると笑うんだ。  色気が増して? 男の渋さも増して? でも、笑った顔は変わらない。お店に飾られた、少し照れ臭そうな青年。その太陽みたいな笑顔は今も変わらず、俺をあっためてくれる。  絵は、描いてるけれど、もうお店に飾ったり、お客さんにプレゼントしたり、そんな感じ。好きに描いて、評価とか関係なしで、ただ見た人が笑顔になったり、胸があったかくなるものであればいいって思ってる。コスモスの、あの絵は今でも一誠のお気に入りで、彼が一日いる厨房に木製の額に入れられて飾ってある。 「ふふふ。ふたりはいつでも仲良しね」 「そりゃ、夫婦ですから」  ニッコリ笑いながら普通にそんなことを言う一誠に自然と頬が熱くなる。俺の見た目変わらないよ。人じゃないから歳も取らない。皺が増えることも、白髪が混ざることもない。いつまでも出会った頃のまま。それを気味悪がる人もいるだろう。 「ありがとうございました」 「また来るわね」  おばあちゃんは小さな手を可愛らしく振りながらお店をあとにした。きっと若い頃は可憐な人だったんだろうなぁって思う。花柄の可愛いワンピースの裾をふわりと浮かせて、軽やかに踊るように歩く姿を想像した。今は少し膝が痛いみたいで、ゆっくりのんびりお散歩しながら、たまにうちの店の椅子に座って俺の話し相手になってくれるんだ。俺が座って看板を描いていた椅子に。  一誠もいつかあんなふうに優しいおじいちゃんになるんだろうな。  俺はその時も、変わらず若いまんまのセクサノイドだ。 「んで? 俺がなんで鈍いんだよ」  俺はセクサノイドだから。 「だって、歳云々で可愛いわけじゃないからね」 「また、一誠は」 「君はいつだってひねくれてて可愛いよ」 「褒めてないし」 「褒めてるって」  ひねくれてるのが褒め言葉だって言ってる一誠が一番のひねくれ者だ。 「トウはいつだって可愛い」  一誠はいつだって俺のことを大切に、大事に、かれこれ、十年、ずっと変わらずこの人は愛してくれている。  十年前に結婚したんだ。ちゃんとふたりでタキシード着て、婚姻届まで書いて、誓って、キスをした。ほら、あれ、病める時も、健やかな時も――っていうの。 「……トウはいつも可愛いよ」  だから、ずっと、これから先もずっと、一誠のそばにいさせて。 「ふーん。じゃあ、その可愛い俺を甘やかしてよ。ココア飲みたい」 「仰せのままに」  貴方だけのラブドール。貴方に愛されるために生きている。貴方の鼓動が止まるまで、俺は貴方への愛で生きている。

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