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陽が差し込まなくなった部屋は急に冷え始め、雪の目を覚まさせた。
ぼんやりとした視界の隅で部屋の壁に取り付けられた時計を見ると、時刻は7時過ぎを指していた。
どうやら2時間近く眠ってしまっていたらしい。
日頃の睡眠不足が解消されたためか、やけに目覚めのいい夜だった。
「うわ…っ」
しかし、視線を自身の体に移せば、そこには先程までの“残骸”が散らばっている。
ベッドへ来るまでの間で脱ぎ捨てられたコート。枕元でクシャクシャになったシャツ。
極めつけは完全に手洗いが必要になった下着だ。『やってしまった』という感覚は、学生時代に夢精してしまった時のことを思い出させる。
とにかく風呂に入ろうと、雪はベッドの上でズボンを脱ぎ、ぐっしょりと濡れた下着は履いたままで風呂場へ向かった。
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シャワーを浴びる程度で 軽く風呂を済ませ、玄関に置き去りにされていたカバンを拾い上げる。
職場用のものに中身を入れ替えようとスマートフォンや財布、処方された薬などを取り出していくと、一枚の紙切れがひらりと落ちた。
「ん…?」
昔のレシートかとも思ったが、どうやら名刺のようだ。つるりとした上質な紙には、ルイ・アシュビーの文字と連絡先が記されている。
裏側には整った文字で、『何か困ったことがあったら連絡して』と彼らしい言葉が書かれていた。
あれだけ世話になっておいて、連絡をしないという選択肢はない。
メールマガジンの通知を消し、キーパッドを開くと 見慣れない電話番号をたどたどしく打ち込んだ。
発信ボタンを押し 呼出音が聞こえてくると、何だか妙に緊張してきてしまう。
『…はい、ルイ・アシュビーです』
「もしもし。茅野…雪です」
『何だ…雪か。知らない番号だったから、誰かと思った』
電話越しの声は、生の声よりも一層優しく聞こえる。
しばらくちゃんとした会話をしていなかったせいで、つい敬語を使ってしまう。
今更のことであるが、一国の王子にタメ口をきくというのも気が引けるし。
『体調の方はもう平気なのか?』
「あ…はい。ご心配おかけしてすみません」
『ふふ、雪の方が歳上なんだから敬語じゃなくていいのに』
「い、いや…やっぱり王子様にタメ口っていうのもちょっと…」
『何だ、そんなこと気にしてたのか』
電話越しにクスっと笑った男は、『王子なんて言われるほど 立派な人じゃないよ』と続けた。
「そんなことないです。この前も…それに今日だって、僕みたいな赤の他人を助けてくれたし」
『…』
「本当に、ありがとうございます」
『律儀な人だね、雪は』
電話越しにニャーと猫が鳴く声が聞こえる。
ルイの膝の上に乗っていることを想像し、思わず口角が上がってしまう。
「とにかく、今日はお礼が言いたくて…」
『そうなの?何か困ってることとかは?』
そう訊ねられた雪の脳内には、仕事のことや、Ωという性のこと、これからの生活のことなど、様々な困り事が思い浮かんだ。
どれもルイに言って解決することではないと思いながらも、膨れ上がった不安は思わず口をついて出てしまった。
「仕事…とか」
『仕事?』
「僕、明後日で仕事辞めるんです。辞めるって言うか、辞めなきゃいけないというか…」
この時、僕はどうしてこんなことを言ってしまったのだろう。
「だから僕にできる仕事があったら…って、すみません。変なこと言って」
この言葉が 自分の人生を大きく変えることになるなんて。
この時は、思いもしなかった。
「…じゃあ、ウチで働く?」
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