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どのくらい走ったのだろう。 茅野が坂下といつも別れる街灯はもう通り過ぎたようだが、自宅まではあと500メートルほどある。 わなわなと震える膝を押さえ、男で立ち止まった。 頭がクラクラして、上手く息も出来ない。吸い込んだ冷たい外気が肺を凍らせるようで、ひどく痛い。 灰色のアスファルトに、水滴が垂れ 黒く変色するのを見て、茅野は自分が泣いていることに気がついた。 その時、ふと高校時代の友人のことを思い出す。 あぁ、彼は 保健室の扉の隙間から覗く僕の目を見て、確かに言ったんだ。 『たすけて…』 あの日僕が彼を見捨てたから、神様は僕に天罰を下したのだろうか。 そうなのだとしたら、これは相応しい罰だ。 僕が受けるべくして受ける罰だ。 「はぁ……茅野、さん…っ…」 後ろから追ってきた男は、凄まじい力で茅野の肩を掴むとその場に引き倒した。 男の背中の下で、紙袋に入った花束がぐしゃりと潰れる。 この男は、一体誰なのだろう。 坂下くんと同じ顔をした、全くの別人じゃないか。 「い、やだ……やだ…」 茅野に覆い被さっている男は、完全に自制心を失っているようで、首元に顔を寄せて静かに呟いた。 「こんな“匂い”させてる茅野さんがいけないんですよ」 その言葉には、聞き覚えがあった。 あの時の保健室。性犯罪の加害者。世論。数日前の僕。 これからは、僕がその標的なのだ。 オメガという鍵のない足枷は あまりにも重くて、足を踏み出そうとした茅野を絶望させる。 「ひっ…ぁ……あっ…」 首を這う舌の感触に、僕の身体は歓喜する。 次第に理性が失われていくのが、自分でも分かった。 生殖本能が、“雄”を欲しているのだ。 「た…、すけて…っ」 心の中で唱えたのは『ルイ』の2文字。 どうしてこんな時に、彼のことを思い出すのだろう。 自分でも分からない。 でも彼は、こんな僕を抱き寄せ『いい匂いだ』と言った。 無理やり抱こうとすれば、僕のことなど簡単に抱けたはずなのに。 「誰も来ませんよ…。こんなところ」 来るはずもない男の姿を想像し、分厚い雲が覆った真っ暗な空を見つめる。 目を開いても、瞼を閉じても、目の前には同じ景色。同じ暗闇。 シャツの裾から侵入してきた手のひらは、悲しくなるほどに冷たい。 それでも、自身のソコはスラックスを押し上げ、生殖器はじんじんと疼いて、“男”を受け入れる準備を始める。 全部、僕がいけないんだ。 それでいい。

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