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雪の自宅前に着いたのは、あれから20分後の事だった。 彼の家のベランダは、車を停めているアパートの駐車場とは反対側に当たるため、車内からは帰宅しているかどうかの確認はできない。 「ちょっと見てくる」 「どうぞご自由に。…私は少し休みます」 ルイよりも早く起きて仕事をしている橘は、運転席のリクライニングを倒し、車内に常備しているアイマスクを付けながらそう告げた。 いつもなら休んでいてもおかしくない時間だ。 こんな時間に連れ出してしまったことを、改めて申し訳なく思ったルイは、ぽつりと謝罪の言葉を述べ、車を降りる。 このアパートの階段を駆け上がるのは、これで二度目だ。 日頃の運動不足が祟ってか、2階に辿り着く頃には軽く息が上がってしまう。 彼の家の前に来ると、ふとあの日のことが思い出される。 甘くて、ひどく官能的な匂いと、今にも泣き出しそうな顔。桜色に染まった頬と、震える躰。 あんな“子猫”を前に、自分でもよく理性を保てたと思う。 扉の向こうからは、悲しいほどに何一つ音はしない。 インターフォンを押し、心の中で何度も唱えた。 『ここに居てくれ』と。 「雪…」 しかし、扉に取り付けられた郵便受けには、今日の夕刊が刺さっており、“もしかしたら寝ているのかも”という僅かな可能性さえも消え去った。 彼の職場も友人も、俺は何も知らない。 「っ…はぁ」 くしゃりと頭をかきあげたルイは、一度大きく息を吐き、膨らむ“あまりにも惨い想像”をかき消していく。 ここに居ても何も変わらない、そう思ったルイは咄嗟に踵を返し、気づいた頃には走り出していた。 土地勘もないルイに頼れるのは、あの“匂い”だけだった。しかし、どこかの部屋に入られてしまっていたら、それだけで追うことは難しい。 数分前に車で通った道に、雪の姿が無かったことから、アパートの駐車場を抜けて右側の路地へと入っていく。 似たような家が立ち並ぶ住宅街。 ぽつりぽつりと電灯が灯っているが、決して明るいとは言えない道だ。 「雪、…雪!」 降り続ける粉雪がじっとりとスーツのジャケットを湿らせていく。 白く染まった息が、もう何度 暗闇へと溶けていっただろう。 「どこにいるんだ…」 人通りのない通りを走り回りながら、感覚も鈍くなった指先でスマートフォンを操作し、発信ボタンを押す。 「……え?」 耳元で発信音が繰り返される中、微かに香ったのは“あの匂い”ではない。 紛れもなく、ヒート期のオメガの匂いだった。 ルイはスマホをポケットに仕舞うと、鼻と口元をハンカチで覆い、匂いの濃くなる方へと向かっていく。 道端に落ちていたのは、踏みつけられた花束。 引きちぎられたのであろうボタンと、見覚えのある片方だけの靴。 手に持っていたハンカチを落としたことにも気づかず、ルイは震える足で歩みを進めた。 街灯のない数十メートルの間にある、小さな裏路地。 聞こえてくる 泣き声混じりの嬌声と、馬乗りになる男の姿に、何かがプツリと切れた音がした。

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