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「…何してる」 ルイはそう言い、茅野に跨る男の肩を掴んだ。 あまりにも強烈なアルファのフェロモンを感じた坂下は、恐怖のあまりに身動きひとつ取れなくなる。ま 「邪魔だ」と小さく呟いたルイは男を引き倒し、自身のコートを掛けて、ぐったりとした様子の雪を抱えた。 カーディガンのボタンは千切られ、スラックスも脱がされかけているが、下着を履いていることを考えると、どうやら未遂だったようだ。 「おい、お前…」 何も言わずに立ち去ろうとするルイに、坂下は思わず声を発した。誰なんだ、と続けようとした男の言葉を遮ったのは、恐ろしい程に低い声だった。 「それ以上何も喋るな」 本当なら一発くらい殴ってやりたかった。 しかし自分の身分や、茅野の立場を考えると、騒ぎは起こせない。事を荒立てたところで、オメガである茅野に明るい未来は訪れないのだから。 誰もいない通りを歩き始めた頃には、空から舞い落ちる雪も止み始めていた。 美しかったはずの花束は、すっかり薄汚れてしまっているが、置いて帰るわけにもいかない。 「…っ、ルイ……?」 紙袋を取るため一度地面に雪を座らせると、ゆっくりと瞼が開いた。 傍にあった靴を履かせると、「どうしてこんなところにいるの?」と熱っぽい息を吐く男に訊ねられる。 「…何でだろうな」 質問の答えをはぐらかし、さっき落としてしまったハンカチを拾い上げると、ヒートの影響でいまひとつ意識がハッキリとしない雪が手を伸ばしてくる。 「欲しいの?」と聞かれ、こくこくと頷いた雪は、肌触りの良いコットンのハンカチを手渡されるや否や、そこに顔を埋めて頬を赤らめた。 フェロモンの匂いに混じり、急に“彼特有”の甘い香りが漂い始めたのを機に、ルイの身体もじわりと熱くなり、思わずため息をついてしまう。 「っ…はぁ」 ルイが何とか自制心を保っていることも知らず、雪はオーダーメイドのジャケットに額を擦り付けると、満足気に口角を上げる。 「はは…ホントに王子様みたいだ…」 まるで煽るようなその言葉に、ルイは強く下唇を噛み、雪を抱えて再び歩き始めた。 こんな状況でもどうにか理性が保てているのは、オメガのフェロモンに起因するラットを抑える効果のある比較的高価な抑制薬を服用しているからだ。 もちろん、薬を飲んでいるからと言って、全く彼の匂いを感じないわけではないし、煩悶とした気持ちは消えるはずもない。 ルイの凍てついた指先が溶かされそうなほどに、雪の体は熱いのに、瞳の奥にはただただ暗闇が広がっている。 それがひどく哀しくて、思わず慰めの言葉を漏らした。 「…無理するな」 無理に笑った男の顔は直視することが出来ず、ルイは前を向いたままそう言った。 ジャケットをぎゅっと握った手が静かに震えるのを感じ、雪を抱える腕に力を込める。 でも、これが現実なのだ。 番のいないオメガは、自分の身は自分で守っていかなければいけない。 今後、雪がこのような事件に巻き込まれたとしても、誰かが助けに来る確証などないのだから。 世界はあまりにも広すぎて、俺には守りきれない。 実際今日だって最悪の事態は免れたものの、雪の心は深く傷付いたに違いない。 ならばいっその事、鳥籠の中に閉じ込めてしまえばいい。 俺の手が届く範囲に、雪を匿ってしまえばいい。 番になるという決断をする勇気もないルイには、こんなやり方しか思いつかなかった。 彼には聞こえないように、小さな声で「ごめん」と呟くと、少し涙が零れた。

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