44 / 47
.
駐車場に停まっている黒塗りのセダン。
運転席の窓ガラスを叩くと、車内で眠っていた橘が慌てて飛び起きるのが見える。
「また“問題”を抱えてきて…」
アイマスクを外してそう小さく呟いた橘は、車を降りて後部座席のドアを開けた。
「これはこれは、…」
“大きな荷物ですね”と言おうとして止めたのは、背後に座ったルイの雰囲気に呑まれてしまったからである。
背筋が凍るような気配に、余計なことを言うのはやめておこうと、橘は心に決めたのだった。
「出してくれ」
「はい」
ルイの隣でぐったりと頭を擡げている茅野は、シートベルトを付けてもらうと「ごめん」と小さく呟いた。
車内にはオメガのフェロモンが充満しており、堪らずルイの息も熱を持ち始める。
「窓、開けましょうか」
橘はそう言うと、運転席のスイッチで後部座席の窓を開けた。暖房の効いた車内に、冷たい空気が流れ込み、熱を持った体を冷ましていく。
足元に置いた花束は、先程より萎れてしまっているようにも思えた。
「橘は大丈夫なのか?」
開いた窓の隙間から風を浴びていたルイは、ふと思い出した。以前、橘が茅野の“匂い”の話をしていたことを。
「えぇ。ヒート時のフェロモンを感じにくくする薬を服用していますから」
「…そうか」
ベータである橘が薬を飲んでいるのは、自分を守るためだけでなく、ルイの立場を守るためでもあった。王子の使用人として、問題を起こす訳にはいかない。
世間でもβ用の抑制薬があることはほとんど知られていない。責任と負担は、圧倒的にオメガが負っている。
もちろんこの抑制薬ではヒート時の“オメガ”のフェロモンは感じにくくなるが、いわゆる運命の番に出会った時や、性的興奮時の“個人”の匂いに対する効果はほとんど無い。
そのため、橘には車内に漂う“茅野の匂い”だけが、鮮明に香っているのだった。
オメガのフェロモンとは違い、個人の匂いそのものはベータには影響しないが、アルファに対しては、性的興奮を誘発させる場合もある。
最近では運命の番を見つけるために、その匂いが存在しているのではないかという説があり、『運命の香り』とも揶揄されている。
「“運命の番”なんて、本当にあるのかな」
ルイは窓の外の赤い光を見つめながら、小さな声で呟いた。
「どうでしょうねぇ…」
信号が青に変わり 車のアクセルを踏んだ橘は、少し考えてから再び口を開いた。
「運命とやらに逆らえないのなら、この世界に愛なんてものは存在しないのかもしれませんね」
橘の脳裏に浮かんだのは、両親の姿だった。
アルファの父は、『運命の番が見つかったから』と言って家を出ていった。ベータだった母は何も言わなかった。
「…アルファはいつでも“置いていく側”なんですよ」
橘はそう言って強くハンドルを握りしめる。
夜の明かりに照らされた車内で、物憂げな表情を浮かべる男に、ルイは何も言えなかった。
ともだちにシェアしよう!