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第五章:ケダモノ
自宅に到着したのは、11時をちょうど回った時の事だった。
「お手伝いしましょうか」
「いや…。今日はもう休んでくれ」
運転席に座った男に別れを告げ、依然としてぐったりとしたままの雪と、すっかり萎れてしまった花束を抱えて部屋へと戻る。
リビングの扉を開ければ、自動でシーリングライトが点灯する。キャットタワーの頂上で休んでいた“ユキ”は、伸びをしながら小さく鳴いた。
「…ただいま」
そう呟いたルイは、革のソファに茅野を寝かせ、履いたままの靴を脱がせていく。
片足の靴が脱げたまま引き摺られたのだろう、グレーの靴下は黒く変色していた。手のひらには血が滲んでおり、凄惨な事実に思わず目を背けたくなる。
夢であればいいと思ったあの光景は、現実でしかなく、ルイの胸を強く締め付けた。
リビングを出て靴を玄関に置きに来たルイは、雪にバレないように静かに涙を流す。
涙が出てくる理由は自分でもよく分からなかった。
それでも、彼の前では泣くことは出来ない。
雪の方が余程、傷ついているのだから。
「…ん……」
煌々と光るライトに目が覚めると、そこは見覚えのある部屋で、“僕はまたルイに救われたんだ”と気がついた。
ルイを探してリビングを出ると、廊下の先の玄関で彼の姿を見つけた。
「ルイ?」
玄関でしゃがみこんだ男が何故泣いているのか、茅野には不思議で仕方がなかった。
身体の熱は未だに冷めない。
擦ってしまった掌や背中がヒリヒリと痛む。
無かったことになどできない、数時間前の出来事。
「…っ、…目が覚めたのか」
背後から聞こえた雪の声に、ルイは慌てて涙を拭い、後ろを振り返る。
男はまだ辛そうに呼吸をしながら、「うん」と言って笑う。
「また、…迷惑掛けちゃいましたね」
「迷惑だなんて思ってない」
ルイは茅野の言葉に被せるように、そう言い放った。
負い目なんて、感じて欲しくない。
廊下で立ち尽くしている男の元へ向かい、「俺がしたくてしたことだ」と呟くと、雪は困ったような表情を浮かべる。
「…雪」
そっと顔に手を伸ばすと、茅野は反射的に後ろへと下がった。居心地が悪そうな瞳は 落ち着きがなく、固く結んだ唇は僅かに震えている。
「俺が怖いか」
「ちが…、違くて…」
「あんなことがあったんだ。…無理しなくていい」
そう言って伸ばした手を下ろそうとすると、雪はその手を掴んで口元へと近づけた。
「…あんなことがあったのに、触れて欲しくて堪らないんです」
ルイの手にかかったのは、あまりにも熱い吐息。
ヒート時のフェロモンよりも強く香るのは、ひどく甘い“雪”の匂い。
「っ…もう、何も言うな」
口付けをするのは、これが初めてだった。
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