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「こちらのお薬は明日から1週間分になっています。いつでもいいので必ず毎日飲むようにしてください。お薬がなくなりましたらまたこちらへお越しください」
「分かりました」
「副作用による吐き気や目眩が起こることがありますので、薬の服用中は無理をしないようにしてください」
「はい。ありがとうございました」
退院できるようになったのはあれから2日経った27日のこと。
会社には明日から出社できるという旨を伝えたが、店長の態度はあからさまだった。
もういっそのこと辞めてしまおうか。
どうせΩ性であるということが知られれば首を切られるに決まっているし、しばらくは貯金で生きていけそうな気もする。落ち着いたら在宅の仕事を探せばいい。
「茅野さん!」
その声の主はもう覚えてしまっていた。
「馬渕先生。今日までお世話になりました」
「…体調の方は、大丈夫なんですか?」
「えぇ…これ以上休んでいても会社に迷惑をかけてしまうので」
「茅野さんの職場は、その…Ωの受け入れに関しては」
「いや…しばらくしたら、辞めるつもりです」
若い男はバツが悪そうに俯く。
彼は悪くはないのに…変な医者だ。
「…じゃあ、そろそろ」
「はい。呼び止めてしまって…すみません」
Ωになった事実を受け入れられたわけじゃない。
ただ、このまま立ち止まっているわけにもいかない。
薬を飲まなければαの餌食になることは間違いないし、発情期が始まれば1週間を無駄にすることになる。
元々βだった僕にとってそれはかなりの苦痛だ。
「1週間後、必ず来てくださいね。待ってますから」
背後から掛けられた言葉は、僕の身を案じているが故のものなのだろう。
Ωであることを知って自ら命を絶つ人が少なくないこのご時世。彼が僕を心配するのも理解できる。
後天性のΩであると聞いた時、僕は実際人生に絶望したのだから。今生きているのは奇跡とでも言うべきだろう。
病院を出ると、凍てついてしまいそうなほど冷たい空気が待ち構えていた。
病院に運ばれた時に、会社に置きっぱなしになっていた荷物は後輩が運んできてくれたようだった。おかげでコートを着ていられるのだが、病室は常に暖かく保たれていたので、コートを身につけていてもなお寒く感じる。
幸い晴れているので、しばらく経てば暖かくなるだろう。
それにしても、随分遠くまで来てしまった。
僕の住むアパートはここからかなり離れている。人の多い電車に乗るのは気が進まないが、タクシーで帰るほどのお金もない。…眠ってしまえば何とかなるだろうか。でもあまり電車を利用しない僕にとって、乗り換えが1番の心配要素だった。
「はぁ…」
白い息を吐き、コートのポケットで両手を温める。
病室の目の前にある公園に設置された時計は4時過ぎを指している。
せっかくここまで来たんだ。しばらく歩き回ってみるのも悪くない。今は薬の副作用もなく、何だか気分が良かった。
しばらく歩いていくと、たくさんの人で賑わう通りへ出た。並木道の挟んで色んな店が建ち並んでおり、ショーウィンドウの向こうの華やかな世界に幾度となく目を奪われる。
寄ろうと思っていた有名なコーヒーショップは、学校帰りの学生やサラリーマンが席を埋め尽くしていたので諦めた。
「…あ」
その代わりに見つけたのは、小さなカフェ。
入口から中を覗くと、あまり人はいないようだったので、入ってみることにした。
「いらっしゃいませ」
40くらいだろうか。店員らしき男はそう言いゆっくりと僕に近づいてくる。
「見ない顔だね。…ここに来るのは初めて?」
「…はい」
「そう。じゃあこちらへどうぞ」
案内されたのは、通りが見える窓際の席だった。
「注文が決まったら声かけて下さいね。ごゆっくり」
コートを脱ぎながら店内を見渡す。
どうやら男性に人気のお店のようで、客のほとんどが男性客だった。
何を飲もうか迷いながらメニューを開くと、なぜかそこにはお酒も載っていた。
カフェだと思っていたけど、もしかして 夜はバーになるのだろうか。…何だか緊張してきた。
だんだんと暗くなっていく街。
飛び交う見知らぬ男達の声。
自分の知らない世界に飛び込んでしまったようだ。
得体の知れない不安を、僕は覚え始めていた。
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