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トイレに立ったのは、三杯目を飲み終わった時のことだった。 「ふぅ…」 用を足し終え、手を洗っていると 少しばかり現実へ引き戻される。 そろそろ帰らないとまずい。家に着いたらとりあえずシャワーを浴びよう。洗濯物も回さなきゃいけないな。…あぁ、新商品の概要も見ておかないと、 「お兄さん、大丈夫?」 そんなことを考えながら ぼうっと鏡の前で立ち尽くしていると、20代くらいの男に声をかけられた。 「…あぁ。はい」 「だいぶ飲んでたみたいだけど…ひとりで帰れる?」 「大丈夫ですよ。心配してくれて ありがとうございます」 そうは言ったものの、帰れる自信はなかった。 この辺りで泊まるのも考えたが、明日の出社時間に間に合うかどうかも分からない。 スラックスのポケットから取り出したハンカチで手を拭いていると、その男は僕の手首の辺りにそっと触れてくる。 「…一応、ナンパのつもりなんだけどな」 「え?」 顔を上げると、男の顔は唇が触れ合いそうなほどすぐそばにあった。 さらに悪いことに 一番端の水道を使っていたので、身を引けば 壁に追い詰められ、いっそう危険な状況になってしまう。 「あの…待って。…待って下さい!」 「怯えた顔も可愛いね…お兄さん」 「や、やだ…やめて…っ」 まさか…そういう店だったのか? 思い当たる節が無いわけじゃない。確かに店には男性客がほとんどだったし、マスターも…それっぽいと言われればそんな気がする。 「僕は、その…ゲイじゃない…し」 「あぁノンケ?いいよ別に。俺そういうの気にしないし」 話は通じないし、お酒のせいか まともに抵抗することさえできない。 それに、何だか今になって眠くなってきた。酒を飲むと眠くなる体質だということを今になって思い出し、焦りはさらに募る。 「あれ、もしかして眠くなってきちゃった?」 「ち、ちが…」 体に力が入らない。瞼が重くて、視界が狭くなる。 睡魔に抗えないのは、病院であまり眠れなかったのが原因だろう。Ωであるということを受け入れられずに、2度の眠れない夜を過ごした。 「そのくらいにしておけ」 「あんたには関係のないことだろ。“王子様”?」 「いいからその汚い手を離せ。…今すぐに」 もうダメだ。 目を開けていることはおろか、立っていることさえままならない。 「おっと。…大丈夫か?」 遠くなる足音と王子の声を聞きながら、僕は意識を手放した。 「仕方ないな…」 彼の困った顔も、骨っぽい手の感触も、この時はまだ知らない。

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