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「お待ちしておりました。茅野様」
ここからどうやって帰ろうかと考えながらエレベーターを降り、ラウンジへ出ると、黒いスーツを身に纏った男性が待っていた。
もちろん知り合いなどではない。
「ルイ様の使用人をしております。橘と申します」
「…はぁ」
「家の方まで送らせていただきますので、車の方へどうぞ」
状況を飲み込めないでいる僕は、言われた通りに歩みを進めることしかできなかった。
大理石の床やアンティーク調のソファがこのマンションがどういう所であるかを物語っている。
五十代くらいの男に着いて行くと、マンションを出てすぐの通りに横付けされた黒塗りのセダンに辿り着いた。
橘という男性は運転席に向かう訳でもなく、習慣のように後部座席のドアを開ける。
「どうぞ」
「ありがとうございます…」
車内にはシャボンの香りが漂っていて、車特有の臭いはまるで無い。
運転席の斜め後ろに座った僕は 荷物を腿の上に乗せ、窓の外を眺めた。まだ朝の七時前だというのに、行き交う人の量は多い。やはり都心の方へ来てしまったのだろうか。
「茅野様、ご住所の方をお伺いしてもよろしいですか?」
「あ…はい」
住所を伝えると男はすぐに車を出した。
搭載された最新型のカーナビはもはや意味を成していない。
ラジオも音楽もかかっていない車内は静寂に包まれ、沈黙に耐えかねた僕は つい口を開いてしまう。
「…何も、聞かないんですか?」
「えぇ。プライベートのことですから」
仕事だと割り切っているのか、彼は必要最低限のことしか話さない。
僕が言葉を紡がなければ、またすぐに静けさが訪れてしまう。
「こういうことは…よくあるんでしょうか」
「すみません。守秘義務がありますので」
「…王子、ですもんね。驚きました」
「聞いたんですか?」
てっきりそこで会話が終わると思っていた僕は、思わず素っ頓狂な声を出してしまった。
取り繕おうと、すぐに「はい」と告げる。
「珍しいな…あの人が」
彼は何かを呟いたようだったが、僕にその言葉は聞こえなかった。何と言ったのか尋ねようとするも、それは男の問いかけによって遮られる。
「横暴な方だったでしょう?」
「いや。えっと…」
「気を使わなくていいですよ。私はルイ様が5つの時からお付きしていますから、…よく分かります」
「…すみません」
言葉を濁してみても、彼には全てお見通しのようだ。
5歳の頃からということは、22年間も一緒にいるということになる。そこまでくればもう家族も同然だ。
「いえ。…根は優しい方なんです。ただ、伝え方が下手なだけで」
優しい人だと思うことがなかったわけじゃない。
泣きじゃくる僕を抱きしめていてくれた時。
ソファで欲を満たしあった時。
確かに優しさを感じることはあった。
「茅野様を送るようにとわざわざ電話を掛けてきたくらいですし」
「…え?」
「ルイ様から聞いていませんでしたか?」
「出て行けって言われたので…」
「そうでしたか…」
嫌いだと言い放った男が、どうして。
濃紺のビジネスバッグに目を落とすと、チャックの開いた部分から白い紙袋のようなものが見えた。
それが、答えだった。
「…確かに、優しい方なのかもしれませんね」
オメガである僕を気遣ってくれるアルファが、この世に何人いるだろうか。
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