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第二章:症状と副作用
男が出ていってから早1時間半。
部屋はやけに静かで、仕事をするには最適な環境だというのに 手つかずのままだ。
「…はぁ」
こんな時に限って愛猫は見当たらない。
さらに悪いことに、その名前を呼ぶと、別の“ユキ”まで思い出してしまう。ソファで戯れた、あの男だ。
…さすがに言い過ぎただろうか。
ふと頭によぎったのは「すみませんでした」と言って頭を下げる姿と、逃げるように部屋を出ていった男の小さな背中。
「ニャ-」
どこへ行ったのかと思っていたら、寝室にいたのか。半開きになったドアからこちらを覗いている。
「そんな所にいたのか」
少し癒してもらおうと“彼”に近づくと、ユキはまるで中へ入ってこいとでも言うように 奥へ入っていく。俺はそれに導かれるようにして部屋に向かった。
「ユキ?」
軽やかにベッドの上に飛び乗り、もう一度愛らしい声で鳴いた猫のそばには 小さな紙。近づくとそれが五千円札であることが分かる。
どうしてこんな所に紙幣があるのか。
もしかしてあの男が置いていったのだろうか。
紙幣を取りベッドに腰掛けると、ユキが腿の上に乗ってくる。柔い毛を撫で、折り目のついた紙切れを眺めた。
こんなもの受け取れるはずがない。
一体なんの詫びのつもりだ。
昨日バーで払った金はソファでのことでチャラにしてやろうと思っていたのに。
そんなことを考えていると、ポケットの中の携帯が震えた。画面には“橘”の文字。
「何だ?」
『先ほど茅野様を無事送り届けましたので、ご報告をと思いまして』
「…あぁ。ありがとう」
『彼、随分遠いところからいらしてたみたいですよ』
「昨夜はあのバーにいたんだぞ?」
『えぇ。かなり酔っていたようですし、あのまま帰るのは無理だったでしょうね』
思わずため息が漏れる。
いい歳して、全くどうしようもない男だ。
『…お送りする際 色々話をしましたが、あなたの好きそうな“可哀想な人”でしたよ』
「あのなぁ…」
否定しようと口を開くが、それは橘の声に妨げられた。
『それと、どうして王子であることを明かしたんですか?本当に親しい方にしか話さないでしょう』
「…俺の自由だろ」
『それはそうですが…あまり感心しませんね』
俺が王子であることを知っているのは一部の使用人とハルキ、それからあの男だ。
バーのマスターは愛称として俺を“王子”と呼んでいるだけで、本当の王子であることは知らない。
どうして彼に言ってしまったのかは、俺にもよく分からなかった。
「もう用件は済んだだろ。切るぞ」
これ以上話すと面倒なことになりそうだ。
橘には「自分が王子であることは簡単に言いふらすな」と昔から何度も言われてきたし。
『最後に一つ』
「…何だよ?」
『オメガのフェロモンって、あんな香りだったんですね』
その言葉に 頭が真っ白になる。
橘はベータの人間だったはずだ。確かにベータの中には“匂い”を感じ取れる奴もいるが…彼もそのうちの一人だと言うのか?
「おい、お前…」
言いかけたところで電話は切られた。
俺には時々 橘の考えていることが分からない時がある。二十数年の付き合いになるが、彼の詳細は不明なままだ。
もちろん橘を信用していないわけではない。だからこそ、警戒しておく必要はあるのかもしれない。
カーテンの隙間から覗く曇り空を眺め、携帯を握りしめた。
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