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ロッカー室には、坂下くん一人だけだった。 シフトが終わった後もしばらく倉庫に残っていたため、この時すでに八時を過ぎてしまっていた。 「あ、茅野さん。お疲れ様です」 「お疲れ様」 僕がドアを開けるやいなや 男はスマートフォンを弄るのを止め、パイプ椅子から立ち上がる。背を向けていても、彼がゆっくりとこちらへ向かってくるのが 何となく分かった。 「…あの」 「ん?」 ジャンパーを脱ぎながら軽く返事をする。少し後ろを振り返ると思ったより近くに彼の喉元が見え驚いた。 「良かったら、途中まで一緒に帰りませんか」 「…え?」 「す、すみません。嫌なら…全然、断ってもらって構わないので…」 「嫌とかじゃ…なくて、その…待っててくれたのか?」 突然の誘いに動揺こそしたものの、不思議と嫌な気はしない。何度か帰りが一緒になることはあったが、こういうふうに誘われるのは初めてだった。 「…えぇ。俺、茅野さんが倒れてからずっと心配で…」 「それは…すまなかったね」 「いえ。こうして戻ってきてくれて、本当…良かった」 ストレートなまでに想いを口にする男。 僕を心配して、戻ってくるのを待っていてくれた男に、あと一ヶ月もしないうちに仕事を辞める、なんてことは言えるはずがなかった。 「…ありがとう」 笑うと目尻に出来る皺。暗めの茶色に染められた髪。 どちらかと言うと可愛らしい顔立ちをしていて、その割に身長は高い。そのギャップがいいんだと休憩室で話す女性社員も少なくない。 しかし、彼とここ一年ほどの付き合いになるが、彼女がいるとかそういったことは 一度も聞いたことがなかった。…自分が疎いだけなのか、本当にいないのかは分からないが。 暖房のないロッカー室は寒く、コートを着ていて丁度いいくらいだ。こんな中で待たせてしまって 本当に申し訳ないことをしたと思う。「お待たせ」と言って彼の方を振り向くと 坂下は何か思い出したような顔してみせた。 「…これ」 黒のリュックから取り出された グレンチェックのマフラー。毛玉の手入れもされていないそれは、僕のものに間違いない。 「あ…」 マフラーを首に巻かれた瞬間。ふわりと香った柔軟剤の匂いに胸が高鳴る。どうやら洗ってくれたらしい。清潔感のあるせっけんの香りは 確かに彼の匂いだった。 巻き終えると坂下は少し照れたように笑って、ロッカー室を出て行く。従業員用の出入り口は目と鼻の先だ。 「わざわざ洗濯してくれたのか?…ありがとう」 「いえ。…本当は病院に一緒に持って行くつもりだったんですけど、忘れちゃって」 斜め後ろを歩きながら感謝の言葉を述べると、彼は重いドアを開けながらそう言う。 外はひどく冷え込んでいたが、マフラーを巻いた首元だけが 妙に暖かかった。

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