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Nightmare Drop 第1話
いつでも笑顔でいなさい。
笑う門には福来たる――というんだよ。
幼い日に自らを抱き上げながらそう言って微笑んだやさしい人の面影を、一日たりと忘れたことはなかった。
◇ ◇ ◇
頃は七月半ば――――まだ龍と波濤が出会う三ヶ月ほど前の真夏の出来事だ。ホストクラブxuanwu では、夏祭りと題して浴衣イベントが行われていた。
ホストは勿論のこと、お客も――この日だけは皆が普段の装いを一変して、和装で参加するというものである。ベテランホストをはじめ、特に店に入ったばかりの新米ホストたちにとっては、初めて体験するイベントの準備に追われて、ここ数日は大忙しの日々を過ごしていた。
「お! かっけーじゃん! お前、どこで調達したのよそれ!」
「調達っつーか、俺のは借り物だよ……。いきなし浴衣で来いなんて言われても、どこでどんなの買っていーかなんて分かんねえしさ。困ってたらオーナーがレンタル衣装店紹介してくれた」
まあ、大概はそれが普通である。
中には顧客に新しい着物を見立ててもらいがてら、プレゼントで贈られるという幸せ者もいたが、そうなるとホストの側からもその彼女用に新調してやる必要がでてくる。稼ぎのいいホストたちはそれも有りだが、なかなか上客が掴めないでいる新人たちにとっては、正直なところ厳しいのも事実だった。わずか一夜のイベントの為に、高額な出費は避けたいのもシビアな現実なのだ。
そんな中で一際 目を引いたのは、この店のナンバーワンホストである波濤の出で立ちだった。
客――それも男の客と同伴出勤した彼を見るや否や、フロアーにいた誰もが驚きの声を上げたほどだ。
粋な透かし模様の入った絽 で仕立てられた浴衣は、見るからに上質で、思わず目を奪われる。既に夏祭りを楽しむ為の――というイベントの域を超えていて、波濤の並外れた見目の良さも手伝ってか、それは和テイストのファッションショーさながらであった。
此処、club-xuanwuではこういったイベントが年に幾度かあって、その時々に合わせた衣装選びをはじめ、当日に金を落としてくれる同伴客を調達するのは、ホストたちにとってなかなかに骨の折れることだった。まあ、押しも押されもしないナンバーワンの波濤には、そういった面での心配はほぼ皆無といえるだろうか。その反面、見えないところでの気苦労は、ある意味、他のホストたち以上だったかも知れない。
◇ ◇ ◇
「波濤君、今日はお疲れ様。その着物、とてもよく似合って、僕も鼻が高かったよ」
イベントが終わった夜半近く――街の喧騒を離れた高級料亭の一室で、杯を交わしながら微笑み合う男が二人。一人はホストの波濤と、もう一人は波濤に着物を贈った上客の男だ。彼の名は高瀬芳則 といった。
一見、エリートビジネスマンといった雰囲気だが、どこの会社に勤めてどんな仕事をしているのか等の詳しいことは聞いていない。
「ありがとうございます。高瀬さんのお陰です! こんないいものを作ってもらっちゃって……何度お礼を言っても全然足りない……」
「なぁ、波濤君さ……そろそろ、その”高瀬さん”っていうの止めにしないかい?」
男はやさしげに微笑みながら、空いた波濤の猪口 に熱燗 を傾けた。
「あ、はい。そうですよね。高瀬さん、めちゃくちゃ大人の雰囲気なんでつい……」
「それはつまり、僕はおじさんってことかい?」
クスッと可笑しそうにしながら痛いところを突いてくる。波濤は慌てた。
「や、違いますっ! そういう意味じゃなくて……何ていうか……」
今まで年齢の話などをしたことはないが、自分と高瀬では二十歳近く離れているのではと思えていたから、つい口が滑ってしまったのだ。
「分かってるさ。ちょっと意地悪を言ってみたかっただけだよ」
「もう! 酷えなぁ! 俺、一瞬マジでビビっちゃったじゃないですか!」
そう言っておどけた後、
「じゃあ……芳則さん――て呼んでい?」
小首を傾げながら問う仕草は、一見計算し尽くされているようでいて、だがしかし頬を薄紅色に染めながらそんな訊かれ方をすれば、悪い気はしないのも確かなのだろう――高瀬という男は嬉しそうにうなずいてみせた。
「嬉しいよ。じゃあ僕も”波濤”って呼び捨てにさせてもらおうかな」
「あ、もちろん! 是非そうしてください!」
波濤は満面の笑みと共にそう言った。
無論、営業スマイルであるが、高瀬にはおそらくそうは映らなかったことだろう。疑似恋愛を本物に思わせる波濤の術は、さすがにナンバーワンを張っているだけはあるといえる。
「じゃあ波濤――もう一度乾杯しようか」
「ええ。それじゃ……芳則さんと俺、二人だけの夜に――」
二人は同時に猪口を掲げて微笑み合った。
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