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進撃(いや喜劇…いやいや悲劇!?)の学会7

 とても眠れる状態じゃなかった。  ツインの部屋で御堂先輩と一緒に泊まることに関しては、歩の厳しい監視の目があるため、身の安全は保障されている。 「タケシ先生、いろいろあって疲れてるだろ? 俺はそこにある椅子で寝るから、気にしないで寝なよ」  いつものおちゃらけた笑顔でベッドを進呈してくれた恋人には悪いけど、医者としての自分の駄目さ加減を再認識させられたせいで、体は寝たがっているのに、頭が妙に冴えたままだった。  現在は宿泊しているフロアの一番奥まったところにある非常口を背に、横にある窓から見える景色をぼんやりしながら眺めている。ひとりにしてくれと歩に頼んでいたこともあり、今日の出来事を反芻するには楽だった。 『ハハッ……。残念なが、ら片想い、なんだ。永遠に叶うこと、のないもの……さ』  刺された患者の言葉を聞いてから、ちょっと前まで片想いしていた自分を重ねてしまった。本来ならそんなことを気にせず、一刻も早く応急処置を施さなければならないというのにだ。 『見目麗し、い君でも、片想いをするもの、なのか』  どんなに自分の見た目が良くたって、片想いする相手の好みじゃなけりゃ意味がない。そのことを伝えかけて、言うのをやめた。言ったところで、その恋はもう終わっているのだから。 『だったら俺の気持ち、がわかるだ、ろ? 最期の望みを聞いては……くれ、ないか。少しでも彼の存在を感じなが、ら死にたぃんだっ』  自分が医者じゃなくただの通行人だったなら、患者の望みをきいていたかもしれない。いや、素直に聞いていたと思う。  見るからに瀕死の重傷に見える患者の願いを叶えてあげなければと、なにもせずにそのまま見過ごしていただろう。好きな人の存在を傍に感じながら死ねるなら、俺だって死にたい. 「だけど俺は医者なんだ。どんな患者でも、助けなきゃいけない立場なのに……」  静まり返ったフロアに、低い声が響いた。言い聞かせるようなそれは、呪文のように自分の耳に返ってきた。 『お前、自分の心の弱さを、こんなタイミングで晒してる場合じゃないだろ。素人が見ても、危ない状態だっていうのがわかるだろ?』  ズシリと胸にのしかかった御堂先輩のセリフは、俺のいいわけを簡単に封じるものだった。それだけじゃなく――。 『周防が今みたいに患者に寄り添って、治療がしたい気持ちもわからなくはない。だがな今は緊急事態、そんな優しさは必要ないんだぞ。そればかりに囚われていたら駄目なんだ。医者として助けなきゃいけない義務が、目の前にぶら下がっているんだ!』  御堂先輩は俺の指導医として、大事なことを言葉だけじゃなく身をもって教えてくれた。  いついかなるときでも医者である立場を表していた、御堂先輩が持っていた牛革製のお洒落な鞄。ぱっと見は医療道具が入っているように見えないそれを、彼はいつも持ち歩いていた。今回の応急処置に、それが大活躍したんだ。  俺は久しぶりに出ることが許された学会に浮かれて、勉強道具しか持っていなかった。 最新医学を学ぶことに気を取られて、医者としての大切ななにかをすっかり忘れてしまっていた。 「俺は……医者失格だ」 「そんなことねぇよ!」  呟いた自分の声をかき消した聞き覚えのある声にハッとして、窓から声のしたほうに視線を飛ばしたら、すぐ傍まで歩が駆け寄って来た。 「らしくないじゃん、どうしたんだよ」 「ひとりにしてくれって言っただろ……」 「ひとりきりの時間はもうお終いだよ、タケシ先生」  言うなり、横からぎゅっと体を抱きしめる。 「おい、こんなところで――」 「大丈夫。みんな寝てる時間だし」 「でも……」  いつもなら抵抗して歩の腕を振り払っているところなのに、その力すら出ない。抱きしめた歩の片手が俺の背中をあやすように叩くせいで、余計に振り解けなかった。 「大丈夫だって。だから安心して俺に身を任せなよ」 「歩……」 「大丈夫、大丈夫――」  歩の優しい声が、心に染み入るように聞こえた。気がついたら自分から、大きな背中に両腕を回してしまう。触れ合ったところから伝わってくる温もりが、さらに安心感を与えてくれた。 「タケシ先生、辛かったら辛いって言えよな」 「あんまり言いたくないんだけど」  いい年をした大人の自分だからこそ、弱いところをお前に見せたくはない。ちっぽけでひ弱な存在に、どうしても思われたくない――。  俯かせていた顔を思いきって上げたら、小さく笑う歩と目が合った。 「強がってるタケシ先生もいいけど、お手上げ状態なタケシ先生も大好きだよ」 「なんだよ、それは」 「自分の心に、嘘をつくのはかまわない。だけど俺の前では素直でいて欲しい。タケシ先生に嘘をつかれると、俺は悲しいんだからな」 (恋人のお願いを、きかないわけにはいかないじゃないか――) 「歩、俺は――」 「うん」  じわりと歪んでいく視界の先にいる歩の顔が、水の中にいるような状態になった。鼻をすする音がフロアに響く。その音に情けなさを感じながら、ぽつぽつと口を開いた。 「俺ひとりきりだったら、さっきの患者を見殺しにしていたかもしれない……」 「どうして、そんな状況になるんだよ。だってタケシ先生は医者なのに。いつもなら冷静に対処しているだろ?」  痛いところを突いてくる恋人に、思いっきり視線を逸らしながら言葉を繋げる。 「刺された痛みに顔を歪ませた患者の声を聞いたら、治療の手が止まってしまったんだ」  俺を抱きとめていた片手が、俯いた顔を強引に上げさせる。無理やり合わせる歩の目から、視線が逸らせなかった。 「タケシ先生の手を止めるなんて、相当つらいことを言ってきたんじゃないのか?」 「歩……」 「俺の病気を治そうと、必死になった姿を見てるからわかる。救える命が目の前にあったら、絶対に助ける医者なんだもん。諦めるなんてことはしないだろ?」  言いながら、頬に伝った涙を拭ってくれた。 「お前がいるから、乗り越えられていると思ってた。今が幸せだったから、昔のことなんて全然思い出さなかったのに」 「昔のこと?」 「手遅れの恋――」  それを告げた瞬間、歩の目が大きく見開かれた。 「アイツのことが……桃瀬を好きな気持ちがまだあるんじゃ」 「そうじゃない、違うんだ!」  歩に誤解されたくなかったのもあり、静かにしなきゃいけない場所と時間帯だというのに、大きな声をあげてしまった。 「タケシ先生……」  沈みきった歩の声が、胸に突き刺さる感じで聞こえた。 「桃瀬を想う気持ちがあるとかじゃなくて、なんていうか……そうだな、古傷と表現したらわかりやすいかもしれない。古傷が疼く感じがしたんだ」 「ずっと桃瀬に片想いをしていたタケシ先生だから、きっと浅い傷から深い傷まで、たくさんありそうな気がする」 「そうかもしれない。だから刺された患者の言葉に、つい耳を貸してしまった。俺は医者なのに……治療を優先しなきゃいけない大怪我をしていた患者を目の前にして何もせずに、ただ手を握りしめて言葉を交わしていた」  歩に告げるのを躊躇していた自分の失態が、するすると流れるように言葉になっていく。そんな俺のセリフを聞いて、歩は小さく何度も頷いてくれた。 「確かに大怪我の治療は、最優先事項かもしれない。だけどやっぱり、タケシ先生は医者なんだな」  落ち込んだ俺を宥めるように、頭をくちゃくちゃと撫でる。その手の温かさで、自動的に癒されてしまった。 「おまえ、なにを言ってるんだ。患者の治療を、俺はまったく施していないというのに」 「そのときのタケシ先生は、患者さんの心のケアを優先したじゃん。病は気からっていうだろ。今回は刺された怪我で病じゃないけどさ、タケシ先生がかけた言葉がきっかけになって、患者さんは生きなければならないっていう気力が湧いてきたんじゃないかと思うんだ」 「そうだろうか――」 「ガンだった俺を、あの手この手で説得したタケシ先生だからこそ、間違いなく心のケアができてるって。絶対っ!」  片手を俺の頭に置いて熱弁する歩の顔を見つめながら、静かに呟いてみる。 「歩……俺はこのまま医者でいて、いいんだろうか」  自信なさげな俺の視線の先にいたのは、右手の親指を立てながら満面の笑みで自分を見下ろす恋人の姿だった。 「いいに決まってるだろ。むしろ医者でいなくちゃ駄目だって。俺が憧れた、小児科医の周防武でいてくれよ!」  その言葉を聞いた途端に、鼻の奥がツンとした。ふたたび涙腺が決壊しそうになったけど、奥歯を噛みしめて我慢する。  ここは泣く場面じゃない――そう思ったから。  頭に乗せられたままの歩の手を叩き落として俯き、全身の力を抜くような深いため息を思いっきり吐いた。 「タケシ先生、大丈夫?」  一応両目を袖で擦ってから、勢いよく顔を上げる。鼻水が出ないように、すすることも忘れなかった。 「大丈夫に決まってるだろ。俺を誰だと思ってるんだ」  ちょっとしたことで簡単に不安定になる俺だけど、歩が傍にいてくれてよかったと改めて思わされる。 「もしかして俺の大好きな、いつものタケシ先生に変身したのかよ?」 「変身ってなんだ。俺はいつもの俺だバカ犬!」  こうして強がりを言えるのも、恥ずかしさを忘れて弱いところを晒すことができるのも、歩のお蔭なんだろうな。 「タケシ先生がいつもよりカッコよく見えるのは、どうしてなんだろうね?」 「それはお前の目に、恋人フィルターがかかっているからだろ」  言いながら大きな体に、ぎゅっと抱きついてやった。こんな遅い時間帯に出歩く宿泊客は俺たちぐらいしかいないと思ったので、大胆な行動をしてみる。 「珍しいね。いつ誰が出てくるのかわからないこんな場所で、目立つことをするなんて」 「まぁな。でもたまには悪くないだろ?」  耳元で甘く囁いてから、シャープな頬にキスを落とした。 「ちょっ、タケシ先生ってば、そんなことして誘わないでよ。部屋に戻ってもできないんだからさ」 「誘ったつもりはない。ただの礼だよ、バカ犬」  笑いを噛み殺しつつ、両手で歩の頬をサンドする。力任せに潰された顔は、普段見ることのできないブサイクな間抜け面になっていて、思いっきり吹き出してしまった。

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