4 / 64
第4話
なんだ?
「……あの、俺トイレ行ってきます」
気を抜いた瞬間、心の底まで見透かされそうな気がして無意識に立ちあがった。
あっさり手は離れて、
「いってらっしゃい」
と手を振る智紀さんに送りだされる。
トイレに行って、とりあえず用をすませて冷たい水で顔を洗った。
バーから居酒屋。結構飲んだような気がする。
ものすごく酒に強いってわけでもない俺の頬は赤くなっていた。
それに少し心臓の動きも速い。
……酒のせい、だな。
軽く頬を叩きながら深く息を吐く。
そろそろ帰ろうかな。
智紀さんと話しているのは楽しいけど、たまに変に緊張してしまう瞬間がある。
それが自分ではなんなのかよくわからない。
だから―――不安なような。
「千裕くん」
俺しかいない男子トイレ。
その鏡に智紀さんが映った。
あ―――、なんかまた胸のあたりが委縮するように動いたような気がする。
「トイレですか?」
「んーん」
智紀さんは首を傾げて俺の横に並ぶ。
鏡越しに視線が合う。
洗練された大人の男って感じの智紀さん。
なんで、こんなにざわざわするんだろ。
そのざわざわに似たものを俺は知っているけど、まさか、な。
「千裕くんはさ、痛みを忘れる方法知ってる?」
「え?」
鏡の中で智紀さんが俺の方へと身体を向ける。
俺は鏡を見たまま。
「いろんな方法があるけど。たとえば―――」
前を向いたままの俺の方に智紀さんの手が置かれて、耳元に吐息がかかった。
「別の痛みを与えるとか。痛みを忘れるくらい大きい衝撃を与える、とか」
喋るたびにかかる息に背筋が震える。
おかしい。
おかしいのは、俺だ。
だって、まるで"誘われている"ように思えるから。
ありえない。
「ね、傷の舐めあいでも、スる?」
俺の中で―――警報が、鳴る。
驚きすぎて喉が鳴りそうになった。
唾を静かに飲みこんで一歩後ずさって半笑いする。
「傷って……なんか智紀さんがいうとエロいですね」
わざと言ってみた。
冗談めかして笑う。
そうして流さないと飲みこまれそうな気がする。
って、何にだよ。
「エロい? そ? その気になった?」
誰かトイレに入ってくればいいのに。
二人きりの空間が変に息苦しい。
「……何言ってるんですか、智紀さん」
バカみたいにデカイ声で笑う。
その気ってなんなんだ。
違う、違うよな。
「んー、どうやったら千裕くんはその気になる?」
洗面台に寄りかかった智紀さんが意味深な眼差しを向けてくる。
なんでこんなに動悸が激しいのか。
「その気って」
笑おうとしたけど顔が引きつった。
智紀さんはそんな俺を楽しそうに見てる。
いったい俺はどういう反応を返せばいいんだろう。
からかわれてるのか?
それとも、本当に―――。
智紀さんが一歩近づいてきて俺の手を取る。
強い力じゃないけどしっかりと手首をつかまれて自分でもよくわからないくらい緊張した。
「あ、あの」
「俺、いま千裕くんをナンパしてるんだけど。どう?」
どこをどうみても変なひとじゃなさそうな、明るい笑顔をしているのに。
まるで俺をからかうような言葉を言う。
でもからかいじゃなさそうだって思うのは、単に俺が煽られてるから?
「どうって……。俺、男ですよ」
「ああ、俺バイだから大丈夫」
「……は?」
あっさりとカミングアウトした内容は問題発言じゃないのか?
バイって、バイセクシャルだよな。
女も―――男も……。
「千裕くん、たまにはハメはずすのもいーんじゃない? 俺が」
一歩近づいてきて顔をのぞきこまれた。
吐息がかかるくらいの至近距離。
智紀さんの人差し指がトンと俺の胸をつく。
「忘れさせてあげよっか?」
身体中の血がざわざわして巡っているような感覚。
相手は男で、予想もしていなかった展開。
「で……も…」
なのにどこかで揺れる自分が意識の端っこにいる。
すぐに拒否できないのはなんでだよ。
甘い笑顔をした智紀さんは顔を動かした。
俺の耳元でゆっくりと唇が動く気配がわかった。
「俺の手を取りなよ。―――ちーくん」
耳元で甘く囁いてきたのは俺が好きな鈴の声じゃない。
ましてや他の女の声でもない。
低く、からかうような響きをした男の、智紀さんの声だ。
ついさっきまでは“千裕くん”と呼んでいたはずだ。
不意のことに驚きをそのまま顔に出すと、男は屈託のない笑顔を妖艶に歪める。
「アタリ? ちーくん。って、カノジョのかわりに呼んであげるよ」
鈴が屈託なく呼ぶ声とは当たり前だけどまったく違う。
なのに呼ばれるたびに戸惑う。
俺の動揺を見透かすように智紀さんは首を傾げ俺に顔を近づけてきた。
「ちーくん、ほら。口、開けて」
伸びてきた親指が俺の唇を滑り、ほんの少し開かせる。
頭の中で警報が鳴り響く。
どうしよう、まずい。
そんな言葉で埋め尽くされてるのに身体が動かなかった。
「―――智紀さ…」
我に返ったときには遅く、重なった唇から舌が入り込んできていた。
「……っ」
強張る身体と舌。
咥内をゆっくりと舐めて動く智紀さんの舌は熱く、縮こまった俺の舌を絡め取る。
ざらつく舌が舌の表面や裏筋をなぞって戯れるように動いていく。
―――経験がないわけじゃない。
俺は鈴しか見てなかったけど、彼女は何人かいたし経験はある。
でも……。
そんな経験なんてこの人を前にしたらゼロなんだって思い知らされる。
頭の中が熱で蔓延するような思考力を根こそぎ奪われるようなこんな感覚、知らなかった。
ともだちにシェアしよう!