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—— 想う心と○○な味の……(29)
ドアに顔をくっつけてうなだれていたら、隣の家のドアが開いて30歳くらいの女の人が出てきて、目が合ってしまい、少し怪訝な顔をされた。
—— そりゃ、怪しいよな俺。
仕方なく会釈すると、むこうも小さく返してくれた。
「あの、お隣の……、篠崎さんは、この前引越しされましたけど……」
—— え?
一瞬、耳を疑った。 俺の聞き間違いか…… でなければ、この人が何か勘違いしてるんだと思った。
だけど、続けられた言葉に、これが認めざるを得ない現実だと知らされる。
「急だったみたいで、荷物を運び出すのも、代理の方が立ち合っておられましたが……」
どうして……、こんな急に……。 絶望感に頭がいっぱいになって、その場に崩れ落ちてしまいそうだった。
「あの、引越ししたのはいつですか?」
「えーと、いつだったかな……。 一週間以上は前でしたけど……」
—— 俺がインフルエンザで、ずっとバイトも休んでいた頃だ……。
「あ、あのすみません、もしかして連絡先とかご存知ないですか?」
「え、いえ、そこまでは…… あ、でも転勤で関西の方に行くと仰っていましたよ」
—— 転勤……?
「あ、あの……! どちらの会社にお勤めだったかご存知ですか?」
「…… え? いえ、そんなにお話しをした事はありませんので……」
俺は、思わず前のめりに詰め寄って、矢継ぎ早に質問攻めにしてしまっていた。
どんな小さな情報でもいいから欲しい。
「関西のどこなのか分かりませんか? 大阪とか、神戸とか、京都とか……」
「…… すみません……、分からないんです」
そう言って、隣人は僅かに後退った。
こんな初対面で得体の知れない男に詰め寄られて、困惑な表情を浮かべていることに漸く気付いて、俺は、はっと我にかえった。
「そうですか……。 すみません、教えていただいてありがとうございました」
「いえ……、じゃ、私はこれで」
会釈をして去っていく女性の後ろ姿に、俺はもう一度「ありがとうございました」と言って、深々と頭を下げた。
隣人が立ち去った後は、やけに辺りが、しん、と、静まり返っている気がした。
頭の中はグチャグチャしていて、考えがまとまらなかった。
—— 結婚…… じゃなくて、転勤…… なのか?
どちらかは分からないけど、ここに透さんはいないのは確実なわけで……。
「…… なんでっ……、」
ドアを軽く拳で叩いて、何気なくドアノブに触れると…… ドアが動いた……。
—— 鍵が開いてる!
そっとドアを開いて、恐る恐る中に入っていってみた。
そこにあるのは、ガランとした広いリビング。
一緒に食事をしたテーブルも、ケーキを食べて初めてのキスをしたソファーも、何もかも…なくなっていた。
「なんで……」
あのすれ違ってしまった夜、透さんはどうして俺に会いにきてくれたんだろう。
関西に行く前に、別れを言いに来たんだったら…?
もう、この先会う事もなくなるだろうからって……。
俺は……、
「このまま会えないなんて…… 嫌だよ……」
透さんは、それでも平気なのか……。
哀しいのに、涙も出ない。
もう、透さんの匂いも思い出す物も何もない部屋で、ただ立ち尽くすことしか出来ずにいる。
抱きしめた腕の中の紙袋が、カサリと音をたてた。
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