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 —— 幸せのいろどり(20)

 暗いリビングの灯りを付けて、つい、居る筈もない人の姿を探して、テーブルの上に、見覚えのあるメモを見つけた。  俺の書いた文字の一番下に、少し小さめの癖のない素直な形の字が目に入った。 『サンドイッチ、ごちそうさま。 ありがとうございました。 直 』  それだけの短い文章。  キッチンには、食べた後の食器が、綺麗に洗って水切りに伏せてある。  寝室に行くと、ベッドの上には布団と、直くんの背中に掛けてあげた毛布が、絡まったままの形になっていて、思わず口元が緩んだ。  ベッドに腰を降ろして、皺の残るシーツに手を滑らせた。   もうそこに、体温など感じるわけもないけれど。 確かに今朝まで、ここに直くんが居たという事を思い出させる痕跡が、家の中の彼方此方に残っていて、昨夜のことを思い出してしまう。  俺を見詰める潤んだ瞳や、戸惑いながらも伸ばされた手や、熱く火照った身体を。  朝起きて、身体は大丈夫だったんだろうか。  初めての経験に、身も心もきっと傷ついているはずだったのに。 俺が居なくて、ホッとしただろうか。  —— それとも……。 寂しかっただろうか。  ふと、そんな事を考えている自分に気が付いて、苦笑する。 今更心配しても、もう遅いのに。  直くんから連絡はこないだろうと分かっているし、それは俺もその方がいいと思っているのに。  もう一度だけでいいから逢いたいだなんて。 今まで別れた恋人にさえ、未練など残したことなんか無かったのに。  でも…… —— 逢いたいと一度思ってしまうと、打ち消しても打ち消しても、その想いは忘れられなくなってしまって。  自分ではどうしようもなく膨らんでいく気持ちを、もう認めるしかなかった。  —— 誰かを好きになるなんて、もう一生無いと思っていたのに。  だけど…、その気持ちは超えてはいけない一線にも思える。 このまま逢わなければ、誰も傷つくことはないから。  直くんからこのまま連絡がこなければいいと思っている。  俺からは連絡する術は無い。 このまま逢わないで時間が経てば、きっと忘れられる。  —— 逢わないこと。 それが直くんにとっても俺にとっても、一番良い選択だと思っていた。  …… でも、それは建前だということも分かっていたけれど。 そんな軟弱な考えなど、ちょっとした出来事で、あっけなく揺らいでしまう事になるとは、この時は考えもしていなかった。

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