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—— 幸せのいろどり(34)
「美絵、さん?」
部屋が暗くて、よく見えない。
「美絵さん、カードキー貸してください、 取りあえず電気を点けましょう」
俺がそう言うと、コートを掴んだ手に力が篭るのが分かった。
「…… 灯りは……、点けないでください……」
「でも……、このままでは何も見えないし……」
その時、俺が話す声の下から、小さな声が聞こえてきた。
「…… キス……」
それは本当に、聞き逃しそうな小さな声で……。
「……え?」
顔を見ようと俺にしがみ付いている美絵さんの手を解こうとすると、更にその手に力が入った。
「…… 美絵さん、どうしたんですか?」
もう一度訊くと、俺の胸に顔を埋める形になっていた美絵さんが、ゆっくりと俺を見上げてきた。
「…… キス…… して…… くださらないんですか?」
灯りは窓の外の光だけで、部屋の入り口までは届かなくて、美絵さんの顔はよく見えないけど、真っ直ぐに俺を見つめているのは、感じる。
「…… 美絵さん、取りあえず、電気を……」
「嫌です! …… 明るいと、こんなこと恥ずかしくてできませんから」
今にも泣きそうな声が、腕の中から聞こえてきた。
「…… 美絵さん?」
「—— 好きなんです。 親が決めた縁談だけど、初めてお会いした時から……」
「……」
「…… 透さん、私達…… 結婚するんでしょう?」
声を震わせながら、俺のコートをしっかりと握りしめている手。
「……」
親同士が決めた縁談だけど、俺はそれを受け入れてしまっていて。 それでもそれはまだ、もう少し先の事だと思っていた。
でも、時期がいつだとしても、近い将来結婚することを納得していることには変わりない。
ただ、それを納得していたのは、今までは家庭環境とか会社の為にとか……、自分の置かれている立場から逃げようのないことだと諦めていたのと、一生続く愛なんて、信じていないからだ。
誰と結婚しても、どんなに好きな人だとしても、愛は永遠には続かない。
でも今は……
—— 別れ際に、バイバイと明るい笑顔で手を振る直くんの顔が浮かんで消えていく。
「…… どうして何も仰ってくださらないの?」
暗い部屋の中…… それでも段々と目が慣れてきて、窓から入る街の光だけで、俺を見上げる美絵さんの顔が薄っすらと見えていた。
直くんも、今は物珍しさから、俺との行為を愉しんでいるけれど、それもずっとは続かないと分かっている。
何より、若い直くんが、これからずっと男の俺といるなんて、彼の将来にも影響することも分かっている。
いつかは…… 離れないといけないのは、分かっている。
そして俺も、近い将来結婚することも、納得している。
「…… 透さん……」
大きな瞳を潤ませて、俺を見上げるこの人に、今は『愛』なんてどこにも感じていないけれど。
今にも泣き出しそうに不安そうにしているこの人を、どうして突き放せるだろう。
これから『家族』として一緒に生きていく人なのだから……。
「…… そうだよ。 …… 大丈夫、俺達は結婚するよ」
そして…… その小さな背中を、そっと抱きしめた。
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