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—— 幸せのいろどり(35)
俺を見上げていた瞳がゆっくりと閉じて、カールした長い睫が震えている。
部屋の中は、外の車の音すら聞こえてこない。 静か過ぎて、少しでも動くと立ててしまう衣擦れの音すら、やけに大きく聞こえる。
俺は少し屈むようにして、美絵さんの唇へ顔を近づけた。
窓から入る夜の灯りが、美絵さんの顔を青白く照らし、綺麗に塗ったグロスが艶めく。 ふんわりと漂う香水の香り。
お互いの距離がゼロになる寸前に、俺も目を閉じた。
唇に触れるリップグロスの濡れた感触。
——『今度いつ逢えるかな』
閉じた瞼の裏に浮かぶのは、バイバイと手を振る直くんの笑顔だった。
それは、いつか醒めてしまう夢…… と分かっているけれど。
「……」
「…透さん?」
一瞬だけ触れるだけの口づけをして、すぐに離れてしまった俺を、美絵さんは不思議そうに見上げる。
「…… やっぱり電気を点けましょう」
誤魔化すように、美絵さんの手からカードキーを引き抜いて、壁に設置してあるスロットに差し込んだ。
急に明るくなった室内に、目が眩む。
美絵さんが転びかけた時に、床に落としたバックを拾い上げて傍のソファーの上に置く。
「…… 美絵さん、また明日パーティでお会いできるのを楽しみにしています」
それだけ言って、逃げるように部屋のドアを開けて廊下に出た。
「—— 透さん、きっとですよ。 私、明日お会いできると信じてますから」
追いかけて来る美絵さんに、軽く会釈してドアを閉じる。
足早にホテルを出てタクシーに乗り込み、運転手に自分のマンションの場所を伝える。
自分のした行動に、何か……、胸がムカムカしていた。
俺は—— 結婚する。
その用意された道は、外れないつもりでいた。
直くんとのことは好きだけど、それはいつか醒めてしまう夢だ。
直くんも、俺も、『今だけ』を愉しんでいる。
だから俺は、この淡い夢が終わったら、愛などなくても、結婚出来ると思っていた。 たとえ偽りの心でも、美絵さんを抱けると思っていたんだ。
だけど…… 心も身体も、忘れることが出来そうにない。 君のことを……。
そして、そんな気持ちのまま、美絵さんにキスをしようとした自分が、結婚しようとしている自分が、許せなかった。
何気なく窓の外に流れていく夜の灯りに目を遣ると、ガラスに映りこむ自分の顔に気付いて、目を逸らした。
俯き、手の甲を唇に押し当てて、そっと拭う。
そんなことをしても、軽率だった行動を消せるわけでもないのに。
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