291 / 351

 —— 幸せのいろどり(56)

 付き合っていた彼女とは、夏休みに入る前に別れた。 『どうして?』  と、泣いている彼女に、 『ごめん…』  としか言えなかった。  このままずっと好きなふりをして、いつか駄目になるよりも、今のうちに俺から離れた方が、傷は浅くてすむと思っていた。  ——『透、愛してる』  繰り返される光樹先輩の言葉が、脳に浸透して痺れさせる。『愛』なんて、信じていないのに、誰かに愛されたいと、身勝手なことを思っていたのかもしれない。 『愛してる。 だからいいよね?』  ベッドの上に二人で腰掛けて、キスを交わしながら、囁かれた言葉の意味は、ちゃんと理解していた。  光樹先輩に誘われて、一人暮らしのマンションに従いていったことが、すでに俺の答えだった。  ベッドの軋む音と、熱の篭った吐息と、粘着質な水音が、やけに大きく聞こえていたのを憶えている。  乱れるシーツを強く握り締めて、突き抜ける痛みと、それに勝る程の快感を与えられて。 『透、愛してる…。 透は? …… 透は、俺のこと……、』  —— どう思ってんの? ——  意識が落ちる瞬間に見た、優しくて、熱くて、哀しそうな眼差しと、低い声。  —— 透、愛してる。 ――  それは、偽りの言葉でしょう?  俺は、愛なんて、一瞬で消えてしまうものは、信じない。 だから、俺は…… 愛なんて言葉は使えない。  鼻腔を擽る煙草の匂いに、意識が呼び戻される。  その一歩手前で、誰かが俺の髪を優しく撫でているのを感じた。  ** 『光樹先輩…… 煙草、いつから吸ってたんですか?』  ベッドヘッドに凭れて、紫煙を吐き出した光樹先輩を、うつ伏せの体勢で目線だけで見上げた。 『透に出逢う、ずっと前からね。 透も吸ってみる?』  そう言って、吸いかけの煙草を俺の目の前に差し出した。  俺は、好奇心と、光樹先輩の口を付けたものを差し出された事に、嬉しさみたいなものを感じて。 頭だけ起こして、光樹先輩の指が挟んでいる煙草に、口を付けて吸ってみた。 『ケホッ…… ケホッ……!』  メンソールの味と煙が、一緒に喉の奥にこびりつき、途端にむせてしまった。 『はは、透はこんなの吸わなくていいよ』  そう言って、煙草を灰皿に揉み消しながら、光樹先輩は、薄く笑っていた。  光樹先輩と身体を合わせたのは、その日だけで、夏休みが終わると、部活も引退して、本格的に受験勉強に取り組んでいた…… ようだった。  その後の、光樹先輩のことは、よく知らない。  学校で会うことも減っていき、時々見かけても光樹先輩は、友達と楽しそうに肩を組んだりしていて……。  —— 俺が、話しかける機会は、なかった。

ともだちにシェアしよう!