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―― 幸せのいろどり(66)
マンションの階段を下りて駐車場に向かう間、何度も引き返したい衝動に駆られる。
直くんを抱きしめて、『好きだよ』と言いたかった。
だけど……
『…… 俺、もう、連絡しないっ、もう透さんには会わないっ』
そう言った時の、直くんの顔が忘れられなかった。 直くんは、もう俺の顔なんか見たくないだろう。
俺がしたことは、赦されない。 きっと、この先も何かにつけて、思い出してしまうだろう。 俺に、傷つけられたことを。
―― それに、俺も……。 大切に思っているのに、そう思えば思うほど、直くんの身体に残されていた紅い痕が赦せなかった。
車に乗り込むと、抑えていた想いが堰を切ったようにこみ上げてくる。
「…… ッ」
唇に拳をあてて、それを堪えながら、エンジンをかけようと手を伸ばした瞬間、助手席側のドアが開いて、心臓が跳ねた。
「もう、帰っちゃうの? とおるさん」
「……」
勝手に助手席のドアを開けて、乗り込んできた男に、一瞬声も出せずに固まってしまった。
「久しぶりだね、透」
身動きさえ出来なくなっている俺に、その人は、ニヤリと口角を上げて、そう言った。
「…… 光樹、先輩……」
やっとのことで、発した声は、情けない程に掠れていて、
「お~、憶えていてくれたの? 俺のこと」
そんな俺とは対照的に光樹先輩は、からかうような口調でそう言った。
「…… やっぱり……、あなただったんですね」
「あれ~? やっぱりって…… ってことは、さっきの…… 見ちゃった?」
「…… とぼけないでください。 さっき、俺がいることを知ってて、あなたはわざと…… あんなこと……」
「あんなことって、どんなこと?」
光樹先輩は、助手席の方を見ようとしない俺の顔を覗き込んで目線を合わせてくる。
「ねえ、どんなこと?」
至近距離で見つめてくる切れ長の目は、昔と全然変わっていない。
「やめてください」
じりじりと距離を縮めてくる光樹先輩の肩を押して身体を遠ざけると、「相変わらず、お堅いねー」と、彼は笑いながら助手席のシートに深く座り直した。
「煙草、吸ってもいい?」
そう訊いてくるくせに、俺が応える前に咥えた煙草にはもう火を点けている。
―― どっちが相変わらずだ……。
ライターのオイルの匂いと共に、吐き出した煙が車内に漂った。
「…… で? 直とは、どんな話をしたの?」
「……」
光樹先輩が、『直』と、呼び捨てにしただけで、嫉妬心でどうにかなりそうだ。
「…… 別に…… あなたに話すようなことは、何もありませんから」
「…… ふっ、言うね、透も」
そう言って光樹先輩は、俺の方に向けてわざと煙を吹きかけるように吐き出した。
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