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背中
「三田・・・さん」
302の前に立つ姿は心臓をドクリと動かす
何の用意もない僕は完全に無防備だった
最初のころに「郁は笑っている方がいい」と言われた時くらい面喰っている
「こんばんは」
久々に聞く声
「あ、えっと・・・」
「仕事お疲れ、郁」
久しぶりに呼ばれる名前
「三田さんも・・・」
僕らの間に沈黙が流れる
「あ、入る?何か食べるものあるはずだし」
「いや、いい」
薄暗いエントランスは三田さんの顔を僕に見せてくれない
僕の顔も見えてない?そのほうがいいかもしれない、今自分がどんな顔をしているのか知りたくない
「こないだ・・ごめんな郁」
いや、僕のほうが、三田さんにひどいことを言った
「いや、僕こそ。偉そうなことを言った。頭に血がのぼっちゃって。ごめん」
「郁・・俺ね、ちゃんとするよ。ちゃんとするからさ。郁と向き合える人間になれるように足掻いてみるからさ。少し時間がいると思うけど」
向き合える?僕を引き上げたのは三田さんだ。向き合えるなんて、そんな高尚な人間じゃないよ、僕は。
「僕が一番ちゃんとしていないんだよ?」
僕の聞きたかった声は、目の奥を熱くさせる。
「じゃあ、郁もちゃんとケリをつけてよ」
「え・・・」
「前に進めるように・・・ね、郁」
表情も見えないままに、しなやかな腕が伸びてきて
僕はその中に包まれた
あまりに突然で、相手の背中に腕を回すことすら思いつかなかった
「少し時間が・・・でも絶対見つけるから」
何?何?何?三田さん?
自分の腕は脇に力なく下がったまま、頭の中で思考だけがグルグルまわる
唐突に僕を包んだ腕は同じくらい呆気なく離された
薄暗い中、背中を見るしかない僕
そうやって自分は何回、誰かの背中を見続ける?
もう顔を合わせないだろうと、もう来てくれないだろうと、そう思っていたのに現れた。でも今、振り返ることなく背中だけを残してエレベーターに吸い込まれていく
30秒にも満たない時間だったはずだ
少しだけしか話していない
なのに僕は…文字通り我を忘れるほど、混乱して、興奮して、悲しくて、でも幸せだった
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