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あの人 3

普段は音が流れているであろう店内のなかは静寂だった。 音楽もなく、地下特有の沈み込んだ空気と、僕らの沈黙。それだけしかない。 何かを言うべきなのだろうが、どう口火を切っていいのかわからず、ただただテーブルを眺めるしかない。 ようやく決心してここまで来たのに、何もできずに固まっていた。 「沢田がいなくなったあと、俺はまた二人で暮らし始めた・・・。」 突然静かな声が降りてきた 予想外の言葉に、思わず顔をあげてしまう。静かに僕の視線を捉えて、唇が動く 「表面上は苦難を乗り越えた夫婦のように見えたようだが、実情はただの同居人同士だった。 あいつの意地があったからだ。その意地につきあう義務が俺にはあったしな・・・。 義務というか・・・罪の意識かもしれないが」 あなたは何も変わっていない・・・。 「結局2年かかった。あいつの気が済むまで。だから俺はお前のところに行けなかった・・・ そんなことをしてたからだ、呆れただろう」 2年も・・・。ずいぶんな時間の過ごし方だ。 かといって僕が暗い時間にだけ生きていたのと、そう変わらないかもしれない 本当に久しぶりに会ったというのに、こんな話からはじめるなんて・・・でも、あなたらしい。 それにしても、想像したくない。あの女性と暮らすなんて・・・。 僕が何も言わないのを確かめて、目が強くなる。 そして、少し自嘲的な表情を浮かべて、先を続ける 「結局『気が済んだわ、お互いにもう充分だわ』そう言われた。 お互いにじゃないだろう?お前がだ、と言い返した。 解放される安堵感もあって、つい言い返してしまったんだよ。 『私から解放されても、あの人のところに行くのは止めた方がいいわ』 そう言われて・・・正直、頭に血が昇ったよ」 頬づえをついた手の平が口元を覆っている。 社長とぶつかったあと、いつもそうやって机に座って黙っていた。 あなたは何も変わっていない・・・。 「・・・『義務や、意地や罪の意識が一緒に暮らしたってうまくいきっこない、不毛な時間でしかないのはこの2年であなたが一番わかったはずよ。 もうあなた達にだって純粋な気持ちだけじゃないものが生まれてしまっているから。 結果は私たちと同じになる』 俺は殴られたようなショックを受けたよ。そんなこと考えもしてなかった。 そして2年もかけてそれを俺に・・・最期に言うために・・・2年も」 女性は怖い。そして強い。静香さんを思い出す。 ダメな男になった三田さんにつけこもうとして、でも以前の三田さんに戻ってほしくて・・・。 なれるものなら、自分を好きになってくれるのなら男にだってなると言った。 そしてもう一つの可能性に思い当たる。 「それだけじゃないかもしれません」 頬づえがとかれ両方の手の平が両肘を抱える。少し前かがみになって僕の視線と同じ位置になる。 相手の話を聞こうとするときの・・・ あなたは本当に何もかわっていない。心が少し引き攣れる 「あなたが同じ不毛なことをしないように、体験させたと考えることはできませんか? 確かに意地や復讐心や希望や期待や、色々なものがあったかもしれないけれど。 でも・・・」 「でも?」 「あなたは自分が納得しないと、聞く耳をもたないから」 そう、あなたは変わっていないから。少しだけ可笑しくなって唇が緩むのがわかる 眉間にしわを寄せたあと、中途半端な僕のほほ笑みに目が細められる。 「2年間の時間が、その生活がなかったら、あなたは僕の処に来たかもしれないってことです。 でも確かにそうですよね。僕もあなたも、この頃の二人じゃない経験をしてしまった」 僕は大切な写真をとりだし、そっとテーブルの上に出した 「この時僕らは端っこにしか存在できないような二人でした。でも・・・すべてだったはずです。 この時なら、まだこの時なら、二人で歩いていけたかもしれない。 だから僕はこの写真を大事に今も持っているんです。とても大事な時間だったから。 ・・・僕はあなたの血をひく命を奪ってしまった。 いっそうのこと僕が死んでしまったほうがよかったのかもしれないと・・・思わずにいられないんです。 だからあなたが現れたら・・・どうしたのかわかりません。 罪と責任と貴方への想いで、きちんと向き合えたかどうか・・・わかりません」 「・・・あいつが正しいっていいたいのか?」 「いいえ。わかりません。僕は一度しか会ったことがないし、それもあんな状況だから・・・。 どんな人かわからないんですよ、正しいとか間違っているとか。 ただ、あなたは僕のところにこなかった。サチに聞けば場所はすぐわかったはずだし。 でもこなかったってことは、あなたも理解したってことですよね。 この写真の頃の僕たちではないってことを。 だから何もかも引きはらって、この地下に自分の場所を作った・・・」 何も見えない、僕も見ていない、そんな顔をして立ちあがったあなたは、カウンターのなかで飲みのもらしきものを作りだした。 やることがあるっていいな・・・僕が思ったのはそんなことだったので、ずっと気が楽になった。 少しだけ自分を取り戻せている、そう思えた

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