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第3話

「ああ、デッサンの基礎本。ほら、美術高校は実技試験があるから、教えなきゃいけないんだよ」 今はまだ九月だが、年明けの二月には、高校の前期試験が待ち構えている。県内唯一、美術系学科のある高校の試験内容は面接とデッサン。しかし、前期試験で百パーセントを選り抜きするものだから、後期試験で挽回とはいかず、この秋から冬にかけての短期間でどれだけ志望者たちのデッサン力を伸ばせるかが勝負どころだった。勿論、それも美術教員である僕の仕事で、放課後、数人の志望者の熱のこもったデッサンを毎日厳格に講評している。 「へーこんなに本物そっくりに描けるんだ」 ぺらぺらとページをめくって見せると、鉛筆の濃淡が生み出した絵に、大内は感動したのか、目を輝かせて声をもらした。 彼が驚くのも、もっともだった。なんせ大内が受けている美術の授業は、単なる中学校の選択科目の一つで、美術科高校や専門学校で習うような、高度な領域に踏み込んだものではない。教科書は美術の歴史や画法を一般向けにさらりと流したものであるし、授業内容だって皆と水準を合わせて、うわべだけを撫でているような簡単なものだ。デッサンの描き方でさえ、この本に載っているほど、そう事細かには教えない。 すると大内に、どうしたら描ける? と尋ねられる。僕は余ったコピー用紙の端に、小さく長方形を描いた。そして、その長方形から線を繋げ、立体にする。 「最初は立方体で捉えるんだ。たとえばコップも」 大内が覗き込むような形で、僕の手先を見ているのに気付き、心臓がうわっと高鳴って、思わず血液まで上昇しそうになる。 彼の流れるような前髪が、凛とした瞳にくだり、さらにその眠そうな二重が、艶美な熱帯夜をつくろうように、妙な色気を醸し出している。 「パースがかかっているから、中心部からの距離は、後方は少し狭くなる」 それでも緊張で震えた手をなんとか抑え、いかにも手慣れた手つきで、立方体の線を軸にするような形で円を描く。それが円柱になり、また線を付け足して、みるみるうちに簡単なコップの絵が完成する。大内は、すごい、と大袈裟なほどの感激の声をあげた。 それだけでは終わらない。僕がペンをひょいと渡すと、それを習うようにして、彼は隣に描き始める。自分にしては落書き程度の図を、まるで清書の手本のように凝視されて、僕は思わずたじろいだ。 おぼつかない手で何とか一つ描き終えると、また一つ。大内は繰り返し繰り返し、練習するようにコップの形をとっていった。そして、やっとこれだというのものにたどり着いた後、大内は嬉しそうにペンを置く。絵が上手くなったことよりも、パースの理屈を少しでも知れたことが、秀才な彼にとって好奇心をそそられたようだ。 それから、林檎や瓶など、他のモチーフの形もいくつか取ってみせると、それに続くように彼は真似をした。気付けば、一つの紙をはさんで、まるで二人で色紙に添え書きするように絵を描いていた。 互いの手の距離は、数センチ。いいや、数ミリ。時々、その手がかすかに触れ合って、どきり、と鼓動が揺れてしまう。思わず息が止まりそうになって、誤魔化すように僕は尋ねた。 「大内くんは、どこ志望? 」 大内はペン先を見ながらこたえる。 「西校です」 西校といえば、県内でもずば抜けて偏差値の高い難関の高校だ。それをさらりと言ってのける彼に、大内は深く感心した。 思わずその顔を見ると、相手も気付いたように不思議そうにこちらを見返して、ぱちり、と目があった。吸い込まれそうなその大きな瞳に、僕はもう駄目だと息を止めた。そして咄嗟に、賢いんだね、と笑う。 自慢げな彼の様子を見て、そういえば先ほど女子生徒に告白をしていた事を思い出した。受験勉強は? と訊くと、してません、と彼はやはり自慢げに答えた。その時だけは、若さゆえの怖いもの知らずな危うさを感じて、一教師として少し心配になる。もっとも、それを口に出すことはなかったが。 「つまり、勉強より女の子、か」 ふられちゃいましたけど、と大内は苦そうに言う。そして強気な口調で、 「先生も芸術家だから、恋多き男だったんじゃないですか」 ひやかすように痛いところを突いてくるのは、さすがだ。というよりも、彼は知っているのだ。こういう胸の内に秘めた苦い過去の恋愛話が、何よりも互いの距離を縮める一番の近道である事を。 頭が良いというだけで、いかにも敬遠されがちな、地味でぱっとしない生徒とは、どうりで一線を博しているはずだ。まるで秀才という文字がかすれて見えるほど、一人の生徒として人懐っこく、あらゆる分野の教師からも親しまれ、信頼を得られている。それは彼の根本的性格などではなく、やはりその利口さだ。計算された話術と言ってもいい。しかし、その打算に気付いていたとしても、やはり、可愛いものは可愛い。目の前の子猫を、思わず慈しんで愛でてしまいそうになる。手のひらでうまく転がされているのはこちらだというのに。 「恋、は多かったけどね」 僕は先ほどの問いに、苦笑しながら答えた。 「告白しないパターンですね」 「そりゃあ若い頃はしたよ」 「独身? 」 「直球だね。まあ、そうだけど」 奥手だからですよ、と大内は笑う。 「どんな人が好きなんですか? 」 「可愛くて頭の良い子かな。それに後、……若い子」 「犯罪ですね」 「こら、違うよ」 「二十代とか? もしかして生徒? 」 「だから、違うって」 「自分より若い人が好きだからって告白しないんですか? 」 「自分の年齢はね、わきまえなきゃいけないんだよ」 僕が必死にそう言うと、大内はその取り乱した大人が面白かったのか、声を出して笑った。 そして、もう行かなきゃ、と僕に背を向ける。そしてこちらを振り返ると、 「寂しい恋ですね」 と僕を憐れむようなことを言って、くしゃっとした人懐っこい笑顔を見せた。怜悧な美貌が見え隠れするその容貌に、自分は自由であると、これから幸せになれるのだと、まるで自分とのその差を見せつけられたようで僕にはひどく残酷だった。 ーーそれは単に自分たちの歳の差だろうか、それとも思いを寄せる対象の相異だろうか。 するとその時、大内が美術室の扉を開けた勢いで、扉付近にある棚から教本類がばさりと落ちた。もちろん、本棚と呼べるものではなく、それらはただ棚の上に立て並べてあっただけだ。 大内は、すみません、と言ってとっさにしゃがみ込み、無造作に散らばりかえった本や資料を片付け始めた。僕も慌てて駆けつける。 すると、大内はその中から、まるでたどり着いたようにして一つのファイルを手に取った。中には束ねた書類が入っている。ファイルが半透明のせいで、重なり合った書類の一番の手前にくる紙面だけが透けて見えた。大内は驚いたように制止する。 「あれ? これ……」

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