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第10話【可憐な愛情】「言いたい言葉全てを失った」
病棟の詰め所に挨拶を済ませ、エレベーターを待っていたら背後から名前を呼ばれる。
振り向けば白衣姿の若狭が優雅に微笑んでいた。
「この度はご退院おめでとうございます。」
「…どうも。」
正直に言えばこの時口から魂が出ている自信がある。
「そうそう。海輝さん。ミュージカルとても楽しかったです。久々に錦とも会えましたし大変有意義な時間を過ごせました。」
有難うございますと礼を言われた時は、本気で殺意を覚えた。
細い首を両腕で掴み渾身の力で締め上げる事が出来たならどんなに良いだろう。
見送ってくださいと言い、人影のない所に連れ込んでそれを実行してやろうか。
しかし、計画的犯行ではないので死体の処理に困る。 防犯カメラもあるだろうし、速攻で僕だとばれてしまうじゃないか。
――腹立だしい。
「そりゃぁ、宜しゅうございましたね」と負け惜しみ宜しく、頬を半ば引き攣らせながら精いっぱいの笑顔で答える。
誰が相手だろうと悔しいなど嫉妬など、気取られてはいけない。
過ぎたことは仕方がないのだ。
大事なのは先の事、と言うことで思考を切り替える。
「では若狭さん、お礼を頂けませんか?」
アルバイト先と大学に提出する治癒証明の主席停止日数を一週間ほど延ばし記載するよう依頼した。
こうして僕は朝比奈総合病院を、10月19日水曜日に退院した。
解熱後何週間も咳が残る人もいるようだが、僕の場合は高熱と酷い咳に悩まされたのは発症一週間程で10日を経過したころには熱も咳も 潮が引く様にすっと収まった。
ただ先日まで続いた咳の所為で今も療養中同様、気管と肺、肋骨部分と腹が無茶苦茶痛い。
体調も安定しているし通院も必要ないが、念のため二日ほど様子を見て完全に回復したと確信してから朝比奈家に連絡を入れる。 電話に出た義母の千春は帰省したい旨を伝えると快く受け入れてくれた。
ようやくだ。
――誕生日に盛大な遅刻をした僕は予め用意をしておいたプレゼントを持ち、朝比奈家へと向かうべく一人暮らしのマンションをあとにした。
攻撃性と生命の躍動を感じる夏と違い、秋の柔らかな色彩を纏い始めた街並みは沈む夕日の様に静かで穏やかだ。
半日かけて辿り着いた景色は全く同じ場所のはずなのに、季節の変わり目というだけで何だか別の場所の様に思えた。
夏の終わりに錦と過ごした場所。
何だか随分と懐かしく感じる。
ならぶ白壁に黒塀の建築物。
蔵や屋敷神など含め、立派な旧家が立ち並ぶその奥に一等広大な敷地に建てられた日本家屋。
屋敷林を背に高塀に囲まれた老舗旅館を彷彿とさせる構え。
二カ月前に錦と過ごした僕のもう一つの家。
門扉を潜り、数寄屋門からなだらかな円を描く様に置かれた石畳を踏むと「海輝?」っと竹垣から声を掛けられた。
「――居間から人影が見えたから不審者かと思い…出てこれば…何故ここにいる。」
「不審者だと思ったらまず逃げようね。」
竹垣を回り込み数メートル先に姿を現した錦が、ぽかんとした顔で見上げてくる。
夏服と色違いの紺色のセーラーカラーの上着に、膝丈までのスクールズボン。
「何故…」
睫に縁どられた瞳は水分を湛え、僕の背中越しにある陽の光を映しキラキラと輝いている。
目の前までふらふらと近付いて来た彼の唇は震えていた。
何故。呟く彼に「ただいま」と口にしようとしたのに、言葉よりも先に腕が伸び考えるよりも先に目の前の体を引き寄せて抱きしめていた。
「っ、何…」
「あぁ、錦君だ」
覆いかぶさるようにして抱きしめれば頬にサラサラと動く髪の感触がくすぐったかった。
未発達な体。腕の中で蠢く華奢な骨の感触。
やはり、ミルクをたっぷり使用したビスケットの様な香りがした。
仄かに香るそれを吸い込み、名前を呼ぶ。
「錦君だ…。」
会ったら何を言おうなんて、迷いにも似た雑念がすべて吹っ飛んだ。
錦が腕の中にいると改めて思えば、言いたい言葉全てを失った。
「海輝、苦しい…背中痛い。」
慌てて緩めた腕の中を見下ろす。
頬を染めて少しだけ怒ったように睨みあげてくる姿を見て、もう一度「あぁ、錦君だ」と溜息まじりで漏らした。
「そんなもの、見れば分かるだろうが。何なんだお前。」
「そうだね。錦君だ。」
「いつもの語彙力はどうした。それより俺の質問に答えろ。」
力を緩め暫く抱きしめていたが、錦が「――部屋に入れ」と恐る恐る僕のシャツの裾を引っ張る。
錦に言われ嗽手洗いをした後、通された居間の応接ソファで彼を待った。
室内は外観からは想像できない、和洋折衷な造りをしている。
錦はこの部屋でどんな風に過ごしていたのだろうか。 そんな想像が出来ない程、生活感が感じられない。
以前過ごした時と違うのは、白い薔薇の花が飾られている事位か。
――さて、何時プレゼントを渡そうか。
紙袋の中に入ったままのギフトボックス。
夏休み海に夢中だった彼の喜ぶ顔を見たくて購入した、人工クラゲの水槽と、 二週間前に錦と電話で話した後、アルバイト先の塾へ移動するときに購入した深海生物の図鑑。
縄文文化関係の本も購入すれば良かったが、すでに彼が持っている可能性もある。
「待たせてすまない」
物思いに耽っていると制服姿の錦が両手に盆を持ち戻ってきた。
着替えてくるのかと思ったが、どうやら茶の準備をしていたらしい。
中は見えないが和紙に包まれた大きな饅頭が茶請けとして出された。
緊張しているのだろうか、それとも茶托を持つ指にかかる負荷の所為か茶の表面が少しだけ震えている。
「…有難う。義母さんは?」
「出かけている。朝学校に行くときには会った。」
「あぁ、じゃぁ入れ違いか。一応帰るって電話しておいたんだけど…。」
昼前に連絡を入れたので、伝わっていないと言うことは錦が帰宅する前に出かけまだ外出先なのだろう。
「そうか、すまない。恐らく、山本さんあたりが伝言を聞いてると思う。」
君は悪くないだろう。
家事使用人の山本さんとやらは、買い物に出かけているらしい。
錦が制服姿であることを考えれば、学校から帰宅したばかりと言うことだ。
やはり入れ違いか。傍らに立ったままの錦が静かに僕を見つめてくる。
「何?」
「――お前の隣に座っても?」
目を伏せる錦の頬に手を伸ばして、微笑み返した。
抱き寄せる様にして隣に座らせ頭に頬、背中を撫でると体を委ねて来た。
――可愛いなぁ。
耳を塞ぐように両手で包み、互いの額を合わせる。
頬を赤くした錦がどこか苦し気に目を細めた。
「会いたかった。」
見つめた眼を先に反らしたのは錦の方だ。
「遅れたけど、誕生日おめでとう。」
「――有難う。それから、ミュージカルのチケットも。楽しかった。」
若狭に対して嫉妬したが、なんだか錦の顔を見ているとどうでも良くなる。
そうか、楽しめたのか。なら、何も問題はないじゃないか。
誕生日どうやって過ごしたの?
誕生日会とかしなかったの?
誰かからプレゼントとかもらった?
君位の年齢ならプレゼント交換とかしない?
どんな日常を送っているの。君の事を教えて。
そんな質問に錦は困ったような顔になる。
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◇10月16日の誕生花
マリーゴールド:可憐な愛情、予感
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