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第3話「電話」

 北見にやり方を教えてもらってから、優穂は定期的に手淫をするようになった。  する時は必ず北見の手の動きを思い出し、昇りつめた。その行動は後ろめたくもあったが、彼が家庭教師としてやってきても、何事もなかったかのように接してくれるので、優穂も普通でいるように努めた。  中学二年の二月の終わり、北見が家庭教師を辞めてしまうことを 優穂は母親から唐突に告げられた。 「北見君って、北見グループの御曹司だったのよ!…ほら、北見不動産とか、北見ジュエリーとかって北見の名前、よく見るじゃない?…苗字が同じだったけど、まさかって感じよねぇ。」  一人興奮気味に語る母、景子に、優穂は些かイラつかされる。 「それで?辞める理由は何なの?」  問われて景子は思い出すような仕草をとる。 「…確かね、今月、大学院を修了?したとかで、彼のお母さんの新事業を引き継ぐんですって!いきなり社長よ!凄いと思わない?」  優穂は落胆しつつも納得する。社会人になるのであれば、家庭教師を辞めるのは必然だろう。 「僕がいない時に挨拶に来てくれたの?」 「ううん、電話でよ。改めてご挨拶に伺いますって言ってたけど、忙しそうだから遠慮しといたわ。」 「そう…。」  あからさまな息子の落ち込みに、景子も少しテンションを落とした。 「ご免。…また探さなきゃね、家庭教師。…それとも塾に行く?」  優穂は無気力に首を振る。 「いいよ。…僕はそんなに馬鹿じゃないし。」  自室に籠ると、優穂の頬を次々と涙が伝い始めた。自分自身でも驚くほどだった。 ――母さんが家庭教師をまた探すっていった時、他の人じゃ絶対嫌だって思った。これって北見先生じゃなきゃ駄目って事なんだ…。  泣きながらも冷静に自分の気持ちを見つめ直していく。 ――北見先生を好きだから。…好きだから?  彼を想う感情が戸惑いを生み始める。周囲の人間への好感と比較すると、少し普通でないような気がした。  それから日を追うごとに北見の事で頭が一杯になった優穂は、彼の住むマンションの付近で、偶然を装って会えないかとうろついてみたりした。 それでも会うことは出来ず、部屋まで行きたいと思ったが、二重にオートロックされた厳重な造りのマンションには尻込みさせられてしまうのだった。  景子が別宅のアトリエに籠ってしまったある日の夜、何気に家の電話の着信履歴を見て、北見の携帯電話の番号を見つけた。景子がきちんと登録していたようだった。 少しの逡巡の後、受話器を取り、恐る恐るその番号に発信する。コール音を聞く度に激しくなる心拍数に耐えながら、北見の声を待った。しかし、数回のコール音の後、聞こえてきたのは無機質な留守電のメッセージだった。気を殺がれて切ろうとしたが、番号から素性が知れるだろうし、失礼だと思い、思い切ってメッセージを残した。 「…優穂です。…また北見先生に会いたいです。」  それだけ言うと、慌てて切った。それから後悔の念に苛まれる。彼がどう思うのかと想像すると、とても怖かった。  翌日、その不安は一蹴される。昨夜とほぼ同時刻、北見から電話が掛かってきたのだ。 「昨日、電話くれたよね。会いたいって急用?」 「そういうわけじゃ…。」  嬉しさの反面、ただ会いたいだけだという感情の後ろめたさに、優穂は口籠った。 「数学とかで分からないとこがあったのかな?」 「いえ、勉強のことなんかじゃなくて…。」  つい本音が出てしまい、狼狽えて更に口籠ってしまう。 「じゃあ、何?」  問われて優穂は、ちらりとダイニングルームを見やった。タイミングが悪いことに、今日は景子が帰って来ており、淹れたてのコーヒーを持って、こちらに移動してくるようだった。 「今はちょっと…。」  言葉を濁した瞬間に、北見にキャッチホンが入ったようだった。 「…悪いけど、話は後日聞かせてもらうよ。…暫くは留守電になってる事が多いと思うけど、よかったら相談事入れといてよ。君の事は真剣に考えてあげたいんだ。じゃあね。」  最後の方は早口だったが、優穂の心に優しく染み渡った。  北見への電話が許されたという思いから、枷が外れたかのように優穂は、ほぼ毎日電話を掛けるようになった。出てくれる時もあったが、大抵留守電になっており、それでも躊躇せずに優穂はメッセージを残し続けた。 『優穂です。いつ会えるのかわからないけど、その時を楽しみにしてるから。…連絡下さい。』 『優穂だよ。声が聴けなくて寂しい。最近、北見先生の事を考えると変なんだ。ただ好きなだけなのに…。連絡待っています。』 『優穂だよ。…今、一人なんだ。…北見先生に会いたい。会って体温を感じたい。』 『…優穂です。連絡がないので、先生に嫌われたんじゃないかって心配です。僕のこと、嫌いだったら、そう言って下さい。』  北見からの連絡を待つ優穂は、日増しに不安と焦燥を募らせていった。もう、電話するのは止めよう。そう思う度に涙が浮かんだ。

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