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第4話「発端」
電話を止めた数日後の日曜の昼下がり、落ち込む優穂に待ち焦がれた声が届いた。
「優穂君?北見だけど。ご免ね、仕事で立て込んでて、連絡出来なかったんだ。」
「大変そうだね…。あの、変な留守電残してご免なさい。」
「あぁ、心配してたんだよ。何かあったのかなって…。よかったら今から家に来ないかい?」
「いいの?」
「うん、待ってるからね。」
優穂は電話を切ると、ダウンジャケットを羽織り、二分後には北見のマンションへと走り出していた。
エントランスホールの中に入ると、上がった息が収まるのを待ってからインターホンを押した。
「早かったね。下へ迎えに行くよ。」
有無を言わせない北見が、数分後、ロビーまで迎えに来た。厚手のネルシャツ一枚の彼は、寒そうに肩を竦ませた。
「久し振り。…やっぱり、部屋を出ると寒いね。」
「久し振り。一人で部屋まで行けたのに…。」
はにかんで笑みを我慢する優穂は、北見の目を見られずに俯いた。
エレベーターに一緒に乗ると、北見から甘い香りが漂ってきた。そして僅かながらにアルコールの匂いもする。優穂は眉を顰めた。
「お酒、飲んでるの?」
「少しね。今日は大学の友人達が来てるんだ。」
北見の言葉に優穂は愕然とする。先客がいることは全く想像していなかった。
玄関に入ると、ヒールの高い靴が四足ほど並んでいた。北見から感じた甘い香りが女性からの移り香だと、優穂は察すると溜息を洩らした。
「やっぱり、僕、帰るよ。」
室内の空気が感覚的に嫌で、優穂は此処から立ち去ることを考え、扉に手を伸ばした。しかし、北見に阻止される。
「僕の彼女がね、どうしても君に会いたいって言ってきかないんだ。」
その言葉に優穂は呆然自失となった。
「彼女…いたんですね。」
「言っていなかったっけ?」
優穂は重い足のまま、廊下の一番奥の扉へ通される。黒を基調とした広々としたリビングのソファには、一目で派手な印象を受ける四人の若い女性達がいた。
優穂を見た女性達が一斉に騒がしくなる。
その中の一人が優穂の傍に近付いてきた。季節を忘れそうになる露出が高い服の彼女は、黒く長い睫毛に縁どられた瞳で、優穂の顔をまじまじと見つめた。
「僕の生徒だった都山優穂君だよ。で、こっちが僕の彼女の望月美園 。」
北見から香った数十倍の香水の香りに、優穂は息を止め、無言でお辞儀した。
「君が、あの留守電の子なんだ?」
美園の言葉に、優穂は耳を疑った。そして体を硬直させる。追い打ちを掛けるように、周りからも黄色い声が上がった。
「ねぇ、君って最初から男が好きなの?」
「可愛い顔してるじゃない!美園のライバル!…これはアリなんじゃないの?北見先輩!」
「そうだ、声聞かせてよ!本当にあの留守電の子か判断してあげる!」
その瞬間、優穂の頬はカッと熱くなった。
「…どういうこと?」
怒りで震える声で、今まで直視できなかった北見の顔をゆっくり見据えた。北見は困った顔で断りを入れる。
「彼女がさ、留守電を気にしてね。男の子からだっていうのに、どうしても信じてくれなくて。それで…。」
「それで?それで此処にいるみんなで聞いたって言うのかよ!?」
優穂の真剣な怒りにですら、周りからは薄笑いが起こり、好奇の目が向けられた。
「輝弥に変な電話かけ続けるからよ!これは制裁ってやつ。二度と掛けないって約束しなさいよね。」
美園が冷たい目をして言い放った。
「あんた達、最低だ!言われなくても二度とやらないし、会わないよ!」
優穂はその場を飛び出した。憧れ以上の気持ちを持っていた北見への信頼が、音を立てて崩れ去っていくようだった。
――確かに電話した僕が悪かったのかも知れない。でも、あの留守電を人に聞かせるなんて!
自室へ辿り着くと、嗚咽を開放し、声を上げて泣いた。
傷心を抱えた自分を隠しながら、自身を変えることが救われる方法だと、優穂は努力することにした。母親似の顔を隠す為、前髪を長めに伸ばし、男らしく強くなる為に、腕立て伏せや、腹筋、スクワットなどの筋トレを勉強の合間に、毎日欠かさずやった。
時の経過とともに、北見を思い出すことはあっても怒りや悲しみが沸き起こることはなくなってきていた。しかし、あの日以来、電話だけは嫌いになり、母親が留守の時は渋々電話口に出たが、自分から掛けることは極力しなくなった。
春休みに入って間もない頃、電話嫌いになった優穂のそれを助長するような出来事が起きた。都山家に非通知の無言電話が毎日のように掛かってくるようになったのだ。
その電話は夜九時から十一時の間に掛かってきて、母親の景子が出ると切れ、優穂が出ると無言のまま切られるまでそうしている。気味悪がった景子が非通知の電話を着信拒否にする設定をして、ひと段落ついた。
――僕がターゲットだった…。
そう思うと不快さが増し、相手を突き止めたくなった。ふと、何故か忘れていた元家庭教師の顔を思い出す。
――何で…あの人のことなんか…。こんなこと、する理由ないじゃないか。
胸騒ぎを一蹴するように、浮かんだ顔を追い払った。
着信拒否設定の効果で無言電話が止んだある夜、登録外の番号から着信があった。番号から携帯電話であることがわかる。母親が入浴中の為、優穂は躊躇いながらも居間で電話に出た。
「はい、都山です。」
相手は何も喋らない。優穂の背筋を冷たいものが走った。前の無言電話と同一人物だろうと直感して、こちらも無言で聞き耳を立てた。
途中、カランという氷の入ったグラスのような音が聞こえた。またしても過る北見輝弥の顔。意を決して、優穂は声を出す。
「もう止めてくれませんか?北見さん。」
相手が違っていたとしても何かしらのリアクションがあるかもしれないと踏んでの言葉だった。すると相手が息を呑んだような音が僅かに受話器から聞こえた。
「こんなことするなんて、理由は何なの?」
なるべく平静を保って質問をした。暫くの間があいた後、くぐもった声が聞こえてきた。
「そうだよ。…北見だよ。」
低く吐息混じりで興奮したようなその声は、爽やかな北見のトーンとは、かけ離れて聞こえた。
「…君の声で…イキたいんだ…。」
優穂は凍り付く。
「ねぇ、ズボンを下ろして…パンツ一枚になったら…膨らみを擦ってごらん…。それから…下着を下げて出してみて…。」
「何…言ってるの?」
「…ほら、君のを熱くして!」
「わからない…。わからないよ!」
涙目になって震える声でそう言うと、電話はぷつりと切れた。
無言電話の相手と話したと景子には言えないまま、二日が過ぎた。電話はもう掛かってくる気配はなかったが、優穂の怒りは収まらなかった。
その感情のまま、履歴に残る無言電話の番号にリダイアルした。
「お客様がお掛けになった番号は現在使われておりません。」
無機質な音声が流れ、優穂は受話器を静かに置いた。
無言電話の変態と北見輝弥が同一人物だったという確証は得られなかったが、全てひっくるめて、これらに関する記憶に鍵を掛けようと、心に誓った。
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