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第6話「予防線」
何の解決策も浮かばないまま、優穂は自宅マンションの玄関前まで辿り着いた。いつもの帰宅時間と変わらないのに、言葉を幾つか考えなければならなかった。
間取りの関係上、リビングを通らなければ自室には行けない。母親が自室に籠っていない限り、遭遇率は高いだろう。胃がきりきりと傷んだ。
インターホンは押さずに、自分で鍵を開ける。静かに扉を開けると、玄関に男物の靴はなく、安堵の溜息が大きく漏れた。
玄関を上がると、母親の景子がリビングから顔を出した。華やかなワンピース姿ではなく、見慣れた部屋着姿になっていた。
「お帰り。…何か食べて来た?」
予想とは違い、景子は穏やかな表情をしていた。
「うん…。」
食欲がない為、優穂は嘘を吐いた。
「そう…。残念!折角グラタン作ったのにな…。」
「ご免…。」
俯いて謝ると、真っ直ぐに自室へ向かう。しかし景子に腕を掴まれ、引き留められた。
「待って!ちゃんと話をしましょうよ。…本当は、私、あんたの事怒ってるんだから!」
優穂は仕方なく景子の方へ向き直る。
「だけど輝弥君に叱っちゃいけないって言われたの。…難しい年頃で、自分が突然父親になるなんて、すぐには認められないだろうからって…。だから、時間を掛ければ…。」
「無理だよ!…あいつだけは!…あいつだから認めないんだ!」
優穂の態度に、景子は少しだけショックを受けたようだった。
「あいつだから?」
「そうだよ。…それに、母さんは自分が幾つだと思ってるの?あいつは七つも年下じゃないか!」
「そんなの最初から分っているわよ!ちゃんとお互い理解した上で…。」
「あいつの元カノ知ってる?…香水臭い露出狂のケバイ女だった!」
優穂は感情を制御することを思い出し、大きく息を吐いた。それに対し、景子は余裕の表情を見せる。
「聞いてる。」
その答えに優穂はさっと血の気が引くのを覚えた。
「彼が家庭教師を辞めて間もない頃、あんたが遊びに来て、部屋にいた女性に酷くショックを受けて帰ったって…。」
「聞いてるの…それだけ?」
「そうだけど?」
一瞬首を傾げた景子に、優穂は張り詰めた感情を立て直す。
「一体いつの話をしてんのよ?」
景子は続ける。
「彼は今、とても落ち着いているのよ。」
彼女が北見を心から信頼しているのが伝わってくる。優穂はそれを強く踏みにじりたくて堪えていた言葉を吐き出す。
「あいつがイタ電の犯人だって言ったら…どう思う?」
確信のない話だった。しかしそれを真実にして話さなければ、景子の気持ちを動かすことは出来ないだろう。
「イタ電って…何回か掛かってきた無言電話のこと?…あんな直ぐに切れた電話、どうしてあの人だって確定できるのよ?」
「…俺は話したんだ。そしたら北見って名乗って…変なことを言った。」
「変なことって?」
優穂は言葉を詰まらせる。自分を傷付けた卑猥な内容を母親に話せるわけがなかった。
「絶対に彼じゃない。」
景子は否定すると、話を変えてきた。
「去年の九月に、私が個展を開いたの覚えてる?その時、花束を持って輝弥君がひょっこり現れたの。学生の時とは違って高級なスーツ姿で、一瞬、誰かわからなかったわ。彼のお母様も一緒でね、社長室と自宅用に数点、絵を購入してくれたの。…それから、なんとなく、お話するようになって、何回か食事に行ったりして…で、付き合うようになったの。」
二人の馴れ初め話に、優穂は耳を塞ぎたくなった。
「彼ね、凄く紳士的で洗練されてて…とても頼りになるのよ。たまに年上に感じる時もあるくらい。」
「…お金もあるしね。…本当は北見家のお金が目的なんじゃない?」
優穂は、今まで一人で戦ってきたような景子のプライドを傷付けてみた。だが、意外にも景子は強かな目をして、しおらしく肯定してきた。
「そうね、それもあるのかもね。…最近、スランプ気味で、思うように絵が描けなくて…。私は高校中退だし、絵が描けなくなったら何も出来るこはない。あんたも養い切れない。不安な時にプロポーズされて、だからOKしたんだって言われたら否定は出来ない。でもね、彼のことを愛しているとも、はっきり言えるわ。」
「そんなの気の迷いじゃないか!もし母さんが絵を描けなくなったら、俺が養うよ!大学だって行かなくていいんだ!」
景子は静かに首を横に振る。目には涙が浮かんでいた。
「いいえ、あんたじゃ駄目なのよ。言ったでしょう?彼を愛してるって!…私も一人の女なのよ!」
母親の一言は優穂を絶望に追いやった。
「そんな言葉、母さんの口から聞きたくなかったよ!」
耐え切れず、優穂は自室に逃げ込んだ。明かりも点けずにベッドに突っ伏す。そして涙が枯れるまで嗚咽し続けた。
翌朝、部屋に差し込む太陽光で、優穂は目を覚ました。昨夜そのまま眠ってしまった事に気付き、大きな溜息を吐いた。枕元の目覚まし時計を見ると、朝の八時を回ったところで、今日が休日で良かったと胸を撫でおろした。
ブレザーの皺を気にしつつハンガーに掛けると、トレーナーとジーンズに着替えた。
尿意を催し、意を決してそっと自室の扉を開ける。リビングを挟んで真向かいにある景子の部屋の扉を確認して、きちんと閉まっているところから、
彼女がまだ眠っているだろうと予想した。
洗面室に入ると、顔にベタ付きを感じ、シャワーを浴びたくなった。軽く浴びたら、今日は一日外出しようと心に決める。暫く母親と顔を合わせたくなかった。
その後、一通り済ませて廊下に出ると、財布を取りに自室へ行かなければならない事に気付いた。キッチンに通じる引き戸の取っ手に手を掛けた瞬間、景子の声が聞こえてきて手を止めた。
「…今、シャワーを浴びてるの。多分、キッチンの方に来るはずだから、すぐに捕まえられるわ。」
「そう、無理言ってご免ね、景子さん。昨夜は一睡もしてないんだろう?…でも、どうしても優穂君と二人で話したくてね。」
続いて聞こえてきた北見の声に、優穂は一歩後退る。
――何でいるんだよ…!?
優穂は玄関へ向かおうとしたが、北見の一言に足を止められる。
「優穂君は余程、僕に君を取られるのが悔しいみたいだね。…もしかしたら彼は、マザー・コンプレックスが昂じて、君を一人の女性として愛しているのかもしれない。」
その瞬間、優穂はブチ切れたように、勢いよくリビング側の扉から入った。
「そんな言いがかり、やめてくれませんか?…やっぱり変態の考えることって、想像を絶する!」
言い放つと、優穂は自室へ入った。扉を閉めようとした時、素早く追いかけてきた北見が部屋に入りこんで来た。そして彼が扉を閉める。
「そこ、どいてくれませんか?」
学校の鞄からショルダーポーチに財布と定期を移しながら、優穂は外出することを示唆してみせた。
「今日はちゃんと謝りたくて来たんだ。」
「…変態の話なんか聞きたくない。」
北見は首を傾げてみせる。
「さっきから僕が変態って…話が見えないんだけど。」
「とぼけるなよ!あんた、俺を笑い者にしたあと、変態電話を掛けてきたじゃないか!」
「電話?そんなもの掛けた覚えはないよ。」
「嘘だ!あの時、北見って名乗ったじゃないか!」
「本当に?…本当に僕の声だった?」
優穂は言葉を詰まらせる。荒い息混じりの、くぐもった声が北見のものだったとは、はっきり言える筈がなかった。そもそも勝手に北見の顔を過らせ、名前を出したのは優穂自身なのだ。相手がそれを利用して騙ったのだと、過去には何度か結論付けていた。
それでも目の前の男を退けたくて、真相に抗う。
「ねぇ、君が怒っているのはあの事だろう?…あの留守電をあの時、彼女達に聞かせてしまった事。」
北見が声を潜めて放った言葉に、優穂は心臓を掴まれたような面持ちになった。
「…いつかちゃんと謝らなければならないって、ずっと思っていた。電話じゃなくて、直接会ってね。」
「その事、母さんには…。」
「言ってないよ。…あれは君にとって一過性の感情だったって理解しているし…。これからも誰にも言わないよ。」
優穂は脱力感を味わった。彼を遠ざけたかった原因が分かった気がしたからだ。過去に北見を好きだと留守電に残した自分を、母親に知られる事が、きっと一番の恐怖だったのだろうと達観する。
「君を傷付けて、本当に済まなかった。…本当にご免!」
北見は深々と頭を垂れ下げた。
「…少し、考えさせて下さい。」
優穂に投げ掛けられた言葉に、北見ははっとして顔を上げた。
「そうだね、時間は必要だと思う。…でも許してもらえるまで、諦めないから。」
北見は引き締まった顔で、そう告げると、「じゃあ、また」と部屋を出て行った。扉が閉まり、一人の空間になると、優穂はその場に崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。
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