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第7話「兆候」
過去の自分を見つめ直す。間違った行為や失敗をしていたならば、それは少し辛い作業と言えるだろう。
同性に惹かれてストーカーみたいになっていた自分。恥ずべき行為を他人に曝されて激高した自分。自分が原因を作っていたのに、相手を逆恨みした。
もうすぐ十六歳になろうとしている優穂は、十三歳の自分にダイヴし、また客観視して、過去の自分に許しを与える努力をした。そして母親の再婚相手である、北見輝弥のことも受け入れる努力をした。
優穂が折れたように二人の結婚を許すと、数日後には梅雨を吹き飛ばすような盛大な結婚披露パーティーが行われた。母親が美人画家と称賛される著名人でもあった為、小規模ではあるがネットニュースにもなったようだった。
お互いに仕事が忙しいという理由で、新婚旅行を断念した二人は、いち早く日常を構築していった。
優穂だけは、その日常がいたたまれなくて、学校で過ごす時間が唯一の気の休まる場所となっていた。北見の姓を名乗り、高級住宅街の中でも、ひと際大きな邸宅に住まわされた自分が、囚われた鳥のように思えることもあった。
結婚を機に、使用人を引き払い、週二回のハウスキーパーを頼んだという北見は、景子の仕事を尊重しつつも、家族の空間を大事にしようとしているようだった。
七月の期末テストが終わって間もないある日、珍しく北見が優穂よりも早く帰宅しており、夕食の準備までしたと言っていた。
「見よう見まねで作ったんだ。」
ダイニングの大きなテーブルには、ラザニアやアクアパッツァ、エビとアボカドのサラダなどが並んでいる。
「凄い!何でも出来るのね!」
はしゃぐ景子の横で、顔には出さないが、秘かに優穂も感心させられていた。味も申し分ない。
「一階の一番広い部屋をアトリエにしてくれたじゃない?」
夕食の団欒の中、景子が切り出した。
「不満なの?」
「違うの、その逆!とても満足してるの。もう何日も別宅のアトリエには行ってないわ。だから、なくしてしまおうかと思ってるの。」
景子の言う通り、新婚ということを除いても、別宅のアトリエに赴くことは少なくなってきたようだった。
「…確か、元々は実家だったよね?」
「そうなの。父が亡くなって、母が兄夫婦の処で暮らすようになったから、改装して使わせて貰ってたんだけど、…あの土地は兄夫婦に譲るべきなんじゃないかって、最近、そう思うのよ。」
本の僅かな間が訪れた。
「その件に関しては景子さんの考えを尊重するよ。それに、家に居てくれた方が、僕も優穂君も嬉しいからね。」
名前を出されて、優穂は慌てて取り繕うように微笑んだ。
「ご馳走さま…。」
幸せそうな二人を残して、優穂は一人席を離れる。
ダイニングルームを出ると、広い玄関ホールから真っ直ぐ二階に伸びる大理石の階段を上がった。上り切った先には、景子の作品である写実絵画が飾ってあり、その下の飾り棚には大きな花瓶に生けられた花や、アンティークな置物が並べられている。ちょっとした美術品の展示場のようだ。
この家は、ホールから伸びる階段を中心に、左右に分けられた造りになっている。生活に必要な場所だけしか行かない優穂は、この家の全ての部屋を未だに把握していなかった。一階のホールをぐるりと囲んだような二階の廊下を渡り、右手側の一番奥の部屋に入る。そこが優穂に与えられた部屋だった。
十畳ほどのその部屋は、全て据付の家具でシンプルに構成されている。以前の優穂が愛用していた家具は全て処分されてしまったということだった。。ゲームや漫画を読む趣味もなく、必要最低限の物しかない部屋は、彼にとって無駄に広い。
徐に鞄からクロッキー帳を取り出して、据付のベッドの上に腰掛けた。頁を捲ると、同級生の姫川燈を描いた絵に目が留まった。無理矢理モデルにされた彼は、とても不機嫌な顔をしていたが、それでも充分に綺麗だった。
――もう一度、描かせてもらおうかな。今度はちゃんとポーズも付けて…。
不意に下半身が熱くなり、優穂は狼狽える。
――嘘だろ…何で…!?
股間に手を伸ばすと、固く脈打っている。
――姫川君じゃない!…絶対、違う!
強く否定しながらも、下半身の熱は収まらない。耐え切れず下着ごとズボンを下ろした。解放するべく、そそり勃つそれを扱き始める。
――違う!…彼が対象なんてあり得ないから…!
最近は緊張し続けていたせいもあって、自慰をすることがなくなっていた。それで溜まっていたのだろうか。今までにない快感に腰も自然に動いた。極力声は出さないつもりだったが、荒くなった呼吸と共に少し声が漏れた。
「…ふっ…う…う…あぁ!」
右手の中に熱い液体を吐き出した。そのまま、ベッドに仰向けに横たわった。
――最悪…。
暫く余韻に浸りながらも、軽く後悔した。
翌朝、すっきりしたような、していないような頭で、優穂は北見の運転する助手席に乗り込んだ。北見の家に引越してから学校が少し遠くなり、彼が気を遣って送ってくれるのだ。最初は抵抗があった二人きりの空間も、段々と慣れてきていた。
「毎朝送ってもらってすみません…。」
珍しく優穂の方から口を開いた。
「送ると言っても、僕の会社の近くのバス停までだし。…学校が遠くなったのは申し訳ないって思ってるから、気にしないで。」
話が途切れ、一つ目の信号待ちに引っ掛かった時、急に北見が優穂の右手首を掴んだ。
「何ですか?」
突然の事に全身を強張らせた。
「相変わらず、細いと思ってね…。」
北見は軽く笑って手首を開放すると、ハンドルに手を伸ばした。信号が青になり、車は走り出す。
「最初に会った頃より、身長はかなり伸びてるし、声もあの頃より低くなった。あと、俺っていうようになったんだね。」
観察されていたことが恥ずかしくて、優穂は北見を見ないようにした。
「…その変化は仕方ないとして、その敬語は何とかならないかな?…前の方が自然体だった。」
優穂は固く唇を結び、心の中で答える。
――それは俺が、あの時の俺じゃないから。
そのまま沈黙が続き、降車する場所が近付いてきた。シートベルトに手を掛け、降りる時を待っている優穂の太腿に、北見の手が触れる。
「昨夜の君の息遣いは最高だったよ。何を想像しながらイッたの?」
優穂は愕然として北見の涼し気な横顔を凝視した。
「今、何て…?」
「ほら、バスが来てる。早く行きなさい。」
ウィンカーを上げて車を停車させた北見は、途端に優穂を急かして車から降ろし、走り去った。
朝とはいえ、もう既に夏の蒸し暑さに包まれた外気に反して、優穂は冷たい感覚に呑まれていった。
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