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第8話「本性」

 昨夜の自慰を知られている。そう確信した優穂は、再び北見への信頼を崩壊させた。 ――揶揄いたかったとしても、あんな事、普通なら言わない。普通なら…。  北見の言動が気になるあまり、学校の授業に殆ど身が入らなかった彼は、部活には出ずに急いで帰途に着いた。  家に帰ると自室に直行し、着替えることもせずに、盗聴器の類を探した。部屋中隈なく見て回るが、しかしそれらしき物は何処にも見当たらなかった。 ――あいつはあの時、二階のすぐ傍にいた…?  ベッドの横の壁を軽くノックし、薄いのかもしれないと想像する。そして隣の部屋が彼の書斎だったことを思い出し、そこへ向かった。  中に入ると、両袖の大きなデスクがあり、デスクトップのパソコンが置かれていた。壁一面は書物に埋まった本棚に囲まれており、話し声や物音が自分の部屋から漏れ聞こえることはない気がした。  何気にマウスに触ると、急にパソコンが再起動してぎくりとした。間もなくしてパスワードの入力画面が表示される。 「パソコン、使いたいの?」  背後から突如声が降り注ぎ、優穂は慌てて振り返った。まだ帰って来ないと踏んでいた北見が入口に立ちはだかっていた。彼はゆっくりと扉を閉めると、後ろ手に鍵も掛けた。  一瞬、怯みかけた優穂だったが、真相を聞き出したくて、相手を真っ直ぐに見据えた。 「今朝の…あれ、どういう事か説明してくれませんか?」  その問いに、北見は嬉しそうに微笑んだ。 「こういう事だよ。」  そしてスーツの内ポケットから、小型のボイスレコーダーを取り出すと、それを再生した。  衣服が床に落ちたような音、続いて木材の軋む音、その音に混じり、荒い息遣いと僅かな嬌声が聞こえてきた。  昨夜の自分だと気付いた優穂は、慌ててボイスレコーダーに手を伸ばした。しかし敢え無く阻止され、それはまた彼の内ポケットへ姿を潜めさせられた。 「あんたさ、俺の信用を取り戻したかったんじゃないの?…結婚という目的を果たしたから、俺が邪魔で嫌がらせを始めたわけ?」  優穂は敬語を忘れ、北見に詰め寄った。彼の意図をはっきりさせるまで、ここを動かない覚悟をした。 「僕が君に嫌がらせを?…まさか!…僕は君の事を一番大切に思っているんだよ。」  北見の手のひらが優穂の頬に触れるように動く。瞬時に優穂は、その手を振り払った。 「此処に一緒に住むようになってから、君、一度もマスターベーションしてなかっただろう?…少し心配してたんだよ。」 「…盗聴?」 「盗聴器はないけどね。…わかるようにしてあるんだよ。」  意味深長な物言いに、此処が彼のテリトリーだという事を思い知らされる。 「ただ、昨夜のはね、少し計画的だったんだ。…君が余りにもしないからさ、君の食事に媚薬を入れさせてもらったんだよ。そしてボイスレコーダーをベッドの下に仕掛けて、君が始めるのを待ってた。それから深夜に回収させてもらったんだよ。」  優穂は混乱を来した。唯一、昨夜の自分が姫川に反応したのではないという事だけに、ほっとさせられる。 「全く…理解が出来ない…。」  優穂の言葉に、北見は深い溜息を吐いてみせた。そして更に想像を絶する言葉を告げてきた。 「どうして?これは君に対する愛の告白なんだよ!…君は全てを理解して、僕を受け入れなければならない。」  北見は優穂への距離を詰めたかと思うと通り過ぎ、デスクの上のキーボードに指を滑らせた。素早くパスワードを打ち込むと、ファイルを開き、ひとつの音声データへカーソルを合わせた。 「…君に特別な感情を持ち始めたのは…この少し後だったかな。」  音声が再生された。発信音の後に続く、優穂にとっては禍々しい記憶。 『優穂だよ。声が聴けなくて寂しい。最近、北見先生の事を考えると変なんだ。ただ好きなだけなのに…。連絡待っています。』 『優穂だよ。…今、一人なんだ。…北見先生に会いたい。会って体温を感じたい。』  優穂の体は咄嗟に反応して、マウスに手を伸ばす。しかし躯体の上回る彼に、あっさりと床に組み伏せられてしまった。 「この音声を何となく消したくなくなって、音声メモに録って残したんだ。…一番最初の留守電は録り損ねたんだけどね。」  尚も抗う優穂の右手を後ろ手に締め上げ、北見は背後から覆いかぶさった。 「…君の声が聞けなくなってから、何度も繰り返しこの留守電メッセージを再生した。そのうち興奮してきてね。…何度も何度も君の声でイッたんだ。」  優穂は息を呑む。 「あんた、やっぱりあの電話の…!」 「電話で猥褻なことを言って喜ぶ性癖を、テレフォン・スカトロジストって言ったかな…。最初は僕も自分の事をそうなんじゃないかと疑ってた。でも違ってたんだ。他で試してみて、そのカテゴリーには属さないってわかった。…君にだけなんだよ。君じゃないとあの興奮は味わえない。」  優穂は臀部に熱く固いものが押し当てられるのを感じ、腰を引いた。しかし、執拗にその熱く固いものは摺り寄せられてくる。そして制服のズボン越しに、優穂自身のものにも刺激が与えられる。 「やめろ!」 「静かにするんだ。…君が僕をこんな風にしたんだよ。…あの留守電が証拠だ。…母親に知られたくないだろう?」  優穂は息を呑む。その効果に北見は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。 「いい子だ。」  北見の唇が優穂の襟足に触れた。そこから顎の先へ移動すると、舌で耳たぶまでの距離を嘗め上げられた。 「今すぐにでも、君と快感を伴う愛し方をしたい。」  耳元で囁かれ、優穂は耐え切れず体を捩った。逃さないようにと北見の腕に更に力が込められ、愛撫は止まった。 「…だけど、まだ早いんだ。まだね。…今は準備期間ってとこだからね。」 「準備期間?」 「そうだよ。君の全てを手に入れる為のね。…君の母親を誘惑して、家族になるところまで漕ぎ着けた。時間を掛けて邪魔者である彼女に尽くして、満足させてやる行為は非常に辛いことなんだ。…だけど、準備はまだ整っていない。それまで必死に我慢してるんだ。君から最高の悦びを与えて貰うその日の為にね。」  北見の一語一語は、優穂にとって恐怖でしかなかった。優穂が堪える為に目を固く閉じると、ほんの少しだけ締め上げる腕の力が弱まった。その隙を感じた瞬間、優穂は渾身の力で彼を跳ね除け、ドアノブに飛びついた。震える手で鍵を開ける。 「この事は二人だけの秘密だよ。」  背中に投げられた言葉を無視して、廊下へ躍り出た。そして階下へ向かう。そこで、ダイニングルームへ入って行こうとする母、景子の姿が目に入った。 「母さん!」 「あ、帰ってたんだ。…どうしたの?息を切らして…。今から夕飯の支度するから、着替えて待ってなさいね。」  状況を知る由もない景子の笑顔に、優穂は言葉を詰まらせて、小さく頷いた。景子に全てを話してしまえば、この状況を覆すことが出来るはずなのに、優穂は立ち竦み、彼女を見送った。  その日の夕食時、何食わぬ顔をした北見が、優穂にスマートフォンをプレゼントしてきた。 「スマホ要らないって言って、持ってなかったんだってね。」  優穂は血の気が引くのを実感した。 「今時珍しいでしょう?兄の子なんて、中学生の時に無理矢理買って貰ってたわよ。」  北見の言動に心を奪われている景子は、優穂の様子に気付く気配はない。 「…使わないから、要らないって言ったんだよ。」  力なく拒絶を示唆する。 「これは親の好意なんだよ。…黙って受け取りなさい。」  暗黙の圧力に落ち、優穂は震える手でスマートフォンを受け取った。

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