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第9話「猶予」
準備期間。
そう言った北見は、書斎での行為以来、手を出してくる気配はなかった。彼が何を準備しているのかは全く見当もつかなかったが、優穂も黙ってそれを待つことはしなかった。
なるべく北見を避けるように、毎朝三十分早く、学校へ出掛けた。自室の扉に鍵がなかった事から、ホームセンターで簡易的に取り付けられる内鍵を購入して、部屋にいる時は鍵を掛けるようにした。そして、隙をみては、書斎にあるパソコンのパスワードを探り続けた。
北見に渡されたスマートフォン。これに電話が掛かって来ることはなかったが、家に置き忘れて外出したり、充電切れを起こしていると、彼から注意を受けた。きっとGPSで見張っているのだろう。大人しく携帯しているが、何れ、これは逆に利用出来ることもあるだろうと、優穂は踏まえている。
自分の身を守るのと同様に、母の身も案じ、気を配っていた。北見は景子のことを邪魔者だと言っていた。それが本心なら、景子に何か危害を加えてくる可能性は大いにあった。最近、別宅のアトリエで作業をしなくなった母親が、ずっと家に居ることが、優穂にとっては救いである為、逆に北見にとっては障害となっているのではないかと予測できた。
北見の本性を話してしまおうと心に決めては、何度も景子に切り出しかけるが、幸せ真っ只中の彼女に、優穂の苦悩は伝わらなかった。
夏休みを目前に控えた昼休みのある日、鞄の底で電子音が鳴った。傍で一緒に昼食を摂っていた金田がいち早く反応する。
「誰だよ?マナーにしてないやつ!」
言われて、おずおずと優穂は鞄からスマートフォンを取り出した。マナーモードにするという概念がなかった為、慌てて操作する。
先程の音はメールの着信音だったようで、送信者は景子となっていた。
「優穂、スマホ持ってんじゃん!何で教えてくれなかったんだよ!」
声の大きな親友の頬を抓って黙らせる。
「親のなんだ。…好きで持ち歩いてるわけじゃない。」
「でも、あると便利だよ。番号教えてよ。」
「いいけど…。」
勝手にやってと言わんばかりに、スマートフォンを金田の方へ押しやる。
「景子からメール来てるけど。」
「呼び捨てにすんな!」
「ってか、自分の母親、名前で入れてんの?」
「俺が登録したんじゃないから!」
そんなやり取りの中、一筋の風と共に、別のクラスの姫川燈が駆け込んで来た。そして優穂の机より低くしゃがむ。
「何してんの?」
「隠れてんの。」
その直後、五、六人の男女が廊下を走り過ぎていく。その一行が過ぎ去ってから、姫川は机の上まで顔を上げた。
「あれ、コスプレ同好会だか愛好会の連中だよ。なんかのゲームキャラのコスをやってくれって言われて、断ってもしつこいから逃げて来た。」
「ああ…確かに姫川君、CGっぽいもんね。」
「生きるCG…。」
金田と優穂は苦笑してみせた。
「あ、そうだ、姫川君も連絡先教えてくれよ。」
金田が姫川にスマートフォンを出すように示唆した。
「残念ながら、俺、持ってないんだわ。…機械とかに全然疎くてさ。」
「機械って…。」
金田が突っ込みかけたところで、姫川が廊下から女生徒に名前を呼ばれた。
「やば…!見つかった。じゃ、またな!」
再び一陣の風を起こして、姫川は走り去っていった。
「ゲームキャラって何かな?」
「さあ…。」
首を傾げて見せながら、優穂は姫川の顔を真っ直ぐ見られた自分に、秘かに安堵した。
「これで夏休みも連絡しやすくなったな!」
登録が完了したスマートフォンを渡され、優穂は薄く微笑んで頷き、それを受け取った。
家に帰ると、景子が忙しそうに自分の部屋とアトリエにしている一室を行ったり来たりと忙しそうにしていた。
「ただ今。…忙しそうだね。」
ホールで呼び止めると、景子は足を止めて息子を出迎えた。その手には大きなスーツケースが握られている。
「…新婚旅行?」
「はぁ!?…メール見てないわね?」
優穂の問いに、景子は眉を吊り上げた。優穂は忘れていたと正直に言って謝った。
「とあるご婦人のヌードを描くことになったの。破格の金額でね。…それで彼女が所有する別荘に、泊りがけで作業することが決まったのよ。」
嬉しそうな口調で語る景子に対し、優穂の表情はみるみる強張りだす。
「泊りがけって…帰って来れないの?」
「…だって、県外なのよ。車で二時間くらい掛かるし、母さん、運転、得意じゃないでしょう。それに絵を持ち出すことは禁じられているから、仕上げをこっちでするわけにもいかないのよね。で、メールにも書いてたんだけど…。」
そこで景子は優穂の前で手を合わせた。
「明日から約一ヵ月間、私の代わりに家事をやってほしいの!ハウスキーパーさんは月曜と木曜に来てくれるけど、その間の家事をね…。」
「無理だよ!絶対に無理!」
優穂は全身で拒否する。
「そこを何とか!…料理は私より上手いし、それに、明日から夏休みでしょう?」
「明後日からだよ!」
何も知らない母親に苛立った。北見の画策が窺える。
「あの人が持ってきた仕事?」
「輝弥君?…違うわよ。…ビジネス関係で知り合いではあるみたいだけど…。」
やはり北見が手を回したとしか考えられられなかった。
そこへ都合よく北見が帰ってくる。
「明日の準備は順調?」
「えぇ。本当にご免なさいね。」
「仕事だし、しょうがないよ。あと、家のことは僕がするから大丈夫だよ。辛くなったら、通いの家政婦さんでも手配しようと思ってる。」
「有難う。…優穂に任せようとして、断られたとこだったの。」
景子は甘えたように北見のスーツの裾を引っ張った。
「隙をみて帰って来られる時は帰って来るけど、あなたも休みの日には会いに来て…。」
「そうだね。近くのホテルに宿泊してもいいし…。」
二人の会話を聞いていられなくなり、優穂は階段を駆け上がって、自室へ逃げ込んだ。そして鍵を掛ける。
「優穂君、君が居なくなるのが寂しくて、堪えられないんだね。」
「まだまだ子供だったのね。」
景子がせがんだ形になり、二人は熱い口付けを交わした。
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