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第11話「葛藤」
準備期間の終わり。
それは優穂にとって、死刑執行の宣告と同等の響きがあった。夜、北見が帰宅するまでに、何とかして逃げ出さなければならない。
優穂はまだ諦めていなかった。
北見が出勤したのを見計らい、優穂は学校へ行く準備をした。夏休み中も美術部は、月曜から金曜まで普通に活動している。
誰にも会いたくないという塞ぎ込んだ気持ちもあったが、この家に居たくない気持ちの方が強かった。
学校前のバス停から少し進んだ所で、幼馴染みの前原洋治の姿を見つけた。ひょろ長い印象の彼の姿は、そこそこ目立っている。
「洋ちゃん、従兄弟達は放っといて良かったの?」
「あぁ、うん。適当に遊びに行くって。…ご免ね、泊まるの断っちゃって。」
前原は相変わらず、いい人オーラ全開だ。
「いいよ、急に言い出した俺が悪いんだし…。」
「五日後になるんだけど、その日なら泊まりに来て大丈夫だよ。」
「三十日?…本当に?」
一瞬、喜んだ優穂だったが、不意に表情を曇らせる。北見に抱かれた後だとしたら、そんな体で親友に会うのは堪えられないだろう。
「都合悪い?」
「…いや、未定。でも、予定空けててくれたら助かるかな。」
部室に着くと、通常の半分くらいの生徒が各々好きなことをしていた。
優穂は描きかけのアリアスの胸像のデッサンを始める。特に描きたかったモチーフではなかったが、顧問に課題として出されたので、仕方なく描き進めていた。対して前原は優穂の近くに椅子を運んできて座り、膝の上のスケッチブックにパステルでメルヘンなイラストを自由に描き始める。デッサン力がないに等しい彼だったが、絵本の挿絵のような世界観の絵は、みんなに称賛されていた。
「…姫川君も家に呼びたいんだけどね、連絡先がわからないんだ。」
描きながら、前原が溜息を吐いて切り出した。
「そう言えば、スマホ持ってないって言ってたね。…緊急連絡網とかってどうなってたっけ?」
「さぁ?特になかったような…。」
首を傾げた後、前原は周囲に目を配ってから、声を少し潜めて話し出した。
「姫川君、一人暮らしなんだよね。何処にどんな感じで暮らしてるのかまでは知らないけど、ちゃんと栄養のある物食べてるのか心配でさぁ…。あ、口止めはされてないけど、一応、一人暮らしというのは内緒で。」
殆ど自身のことを語らない姫川だったが、前原には少しだけ情報を洩らしているようだった。優穂はその情報に食いつく。
「そうなんだ。…寂しくしてるかもね。…担任の先生なら、連絡先、知ってるんじゃない?訊きに行ってみようよ。」
「…教えてくれるかなぁ?そもそも今日居るのかなぁ?」
前原をたきつけて、取り敢えず職員室に向かう。
「あ、居た…!」
洋書を数冊抱えた白髪混じりの小柄な中年男性が、此方へ向かって来ている。
「先生、ちょっといいですか。」
すれ違うタイミングで前原が声を掛けた。
「前原君じゃないか。…これから文芸部の部室に行くんだけど、少しならいいよ。」
担任教師は柔和な表情で、足を止めてくれた。
「先生、あのですねー、…姫川君の連絡先を知りたいんですけど、教えてもらえませんか?」
前原が単刀直入に切り出すと、柔和な彼の表情が急に困り顔に変わった。
「う~ん。…個人情報を漏らすなって、姫川君にキツく言われているからなぁ。」
学校側ではなく姫川本人からというところに引っ掛かり、軽く突っ込みたくなった優穂だったが真顔で堪えた。そして、さらりと嘘を吐く。
「一緒に遊ぶ約束してたんですけど、急に予定が変更になっちゃって、連絡出来ずに困ってるんです。」
「う~ん。」
額に脂汗を浮かべて悩み続ける教師を見て、何か弱みでも握られているのではないか、と優穂は勘ぐる。
「…クウェイル・コーポの一〇三。後は自力で探して。見つけたら…偶然を装ってね!絶対に先生が言ったってバラしたらだめだからね!」
教師は念を押して、足早に立ち去っていった。それを見送りつつ、前原が素早くスマートフォンで検索を掛ける。
「市内で取り敢えず二軒ヒットした。ⅠとⅡがあるみたい。…どっちかだね。」
優穂は表示された地図を記憶する。
「ねぇ、姫川君ってさ、何か変じゃない?自分に関する質問、いつもはぐらかすし。…人が嫌いなのか、何か別の大きな秘密があるのか…。」
言いながら優穂は、後に出した推測の方がミステリアスで気に入った。一方で、前川が神妙な面持ちで告げる。
「俺の想像だけど、…姫川君は美人だから、過去にストーカー被害とかにあったりしたんじゃないかなって。」
「じゃあ、俺達もストーカーに当て嵌まる?」
優穂は前川の説に乗っかった。
「そうなるかも。…どうしよう、嫌われちゃうかな?」
部活を終え、前原と別れると、優穂は姫川の住まいを探そうと決意する。ダメ元で泊めてくれるように頼むつもりだった。不意にマナーモードのスマートフォンがズボンのポケットの中で唸るのを感じた。急に北見を思い出し、行動の一部始終を監視されているかのような観念に捉われる。
恐る恐る画面を見ると景子の文字。意表を突かれて、慌てて電話に出た。
「あ、やっと出た。…優穂、今、家?」
「部活の帰りだよ。どうかした?」
本当は帰って来てほしいと、優穂は心の裡で呟く。
「明日、優穂の誕生日じゃない!…結構な確率で毎年忘れてしまうんだけど、今年はきちんとお祝いしてあげようと思って。」
優穂自身忘れていたことだった。電話を持つ手に力がこもる。
「帰って来るの?」
「えぇ。息子が誕生日なんですって言ったら、スケジュールを都合してもらえたの。一週間延長になったから、ダメ元で国内クルーズ旅行を探してみたんだけど、なんと予約できちゃったのよ!」
「明日?」
「今日よ!今日の夕方五時に出航する船なの。往復するだけのワンナイトクルーズってやつだけど、結構豪華なのよ!」
助かった。その感覚が優穂の体中に染み渡る。しかし、ひとつの懸念が浮かぶ。
「あの人は来るの?」
「二名一室でしか予約出来なかったから、残念だけど、二人旅よ。…まあ、どうせ仕事で断られたと思うし、…これから連絡してみるわ。」
優穂は思わず握りこぶしを作った。
「その連絡、俺がするよ。」
そう言ったが、北見に連絡する気は更々なかった。
「そう?じゃあ、お願い。あ、ドレスコードはないから普段着でいいからね。」
「分った。…母さん、あの…、有難う。」
「うん。最近きちんと話を聞いてあげてなかったからね。久し振りにちゃんと会話しよう。」
電話を切った後、会話をしようという言葉を噛み締める。北見の本性を話せるとこまで話してしまおうと決意する。
十五時過ぎ、景子は運転手付きの車で帰宅した。仕事の依頼人が手配してくれたらしく、港まで送ってくれるという話だった。
「輝弥君に連絡してくれた?」
優穂はぎくりとさせられる。
「…したけど、電話に出てくれなかった。」
「そう。忙しいみたいだもんね。昨夜も急に帰っちゃったのよね。何かトラブルじゃないといいんだけど…。電話、八時以降がいいかな。」
「そうだね…。」
車内での会話は、景子の仕事の現場である雇い主の別荘の話が中心になり、そのまま目的地に到着した。
定刻になり、優穂達を乗せた小型客船が出航した。小さくなっていく陸地を見つめ、優穂は一時の解放感を噛み締める。
景子に促され、五階のキャビンへ一旦落ち着いた。景子が奮発したと言ったそこは最上級ではなかったものの、一流ホテルと変わらない調度品が備えられた一室となっていた。
「船内は自由に行動していいみたい。なんだったら一人で見て回って来てもいいわよ。…スマホ持ってきてるわよね?」
「いや…、忘れて来たみたい…。」
北見を警戒した訳ではなく、本当に忘れて来ていた。
「そうなの!?…まぁ、迷子になっても、船上なら大丈夫よね。」
「折角だし、一緒に行動しようよ。」
「そうね。…今回はバーには行かないことにするわ。」
ディナーを終え、七階にある、窓に囲まれた開放的なラウンジへ移動する。改めて船内は若いカップルが殆どだと実感させられる。
「私達、カップルには…見えないか。…優穂、童顔だもんね。」
景子の言葉にムッとして、優穂も反撃する。
「そうだね。姉弟にも見られないだろうね!」
景子の拳骨が優穂の頭を襲った。
ふかふかのソファに身を沈めて、コーヒーを啜る景子に、優穂は高鳴る心臓を抑えて話を切り出した。
「…北見さんって、変だと思ったことない?」
流石に最初から核心は突けず、遠回りに進めていく。
「変?…思ったことないけど…。」
「あの人さ、俺の絵を高値で買いたいって言ったんでしょう?…変に思わなかった?」
「別に。…あれは力作だったし。色んな人が買いたいって言ってきた作品よ。」
景子の返答に、この線で進めるのを諦める。言葉を模索していると、景子の方から核心に触れてきた。
「あんた、あの人に何かされたの?」
心臓がひと際大きく鼓動した。自分が置かれている状況を母親に伝えようと、必死で言葉を紡ぎ出す。
「俺は…あの人に…せ…。」
「せ?」
「…セクハラされた。」
どうしても性的虐待という言葉を使うことが出来ず、やむなく言葉を差し替えた。
「セクハラって?」
母親の前で性的な言葉を発することに抵抗を感じ、葛藤する。
「体を…触られたんだ…。」
それが精一杯だった。景子に真意は伝わらず、軽く吹き出された。
「女の子じゃないんだし、男同士のコミュニケーションだったんじゃないの?」
「何だよ。男同士のコミュニケーションって…。」
「知らないわよ!…でも、これだけは言える。」
景子は真顔を作って優穂を見つめた。
「輝弥君はね、あんたの事をとても大事に思ってくれているの。私なんかよりも、ずっと真剣にあんたの将来の事まで考えてくれているし…。あんたと仲良くしたくて、一生懸命なんだからね。」
優穂は深々と溜息を吐き、前のめりの姿勢から身を引くようにして、ソファの背もたれに沈んだ。
「母さんは、今、幸せなんだね?」
「えぇ。…輝弥君と結婚出来て、とても幸せ。」
「…長続きするといいね。」
意味あり気な物言いで、優穂は話を終わらせた。
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