翌日の朝九時、予定通りに小型客船は元の港へ帰ってきた。客船ターミナルまで行くと、平日にも拘わらず、北見が迎えに来ていた。 「本当に急でご免なさいね。」 「いいんだよ。こっちこそ、何の手配もしないでご免。」 　北見がスマートに景子の荷物を受け取り、駐車場へとエスコートし始める。 「楽しかった？」 「すっごく楽しかった！ね、優穂！」 　なるべく北見を見ないようにして頷くと、二人の後ろになるように歩を落とした。 「仕事、一週間延長してもらったんだってね。」 「そうなの、切りよく八月から仕事を始める感じにしてもらったわ。…うれしい？」 「うれしいよ。」 　北見は完璧な応対を見せながら、一方で優穂に嘗めるような視線を送って微笑んでみせた。景子の態度から、優穂が何も話していないと踏んだらしい。　 　車に乗り込むと、北見が今日のプランについて話す。 「今日は優穂君の誕生日だからね、これからプレゼントを買いに行くよ。…最近、パソコンを触りたがっていただろう？最新のを買ってあげるよ。」 「よかったわね！優穂！」 　黙ったままの優穂に、景子が代わりにはしゃいでみせた。 「夜はレストランを予約しているからね。それまでは好きに楽しんだらいい。」 　一日休暇を取ったという北見は、二人の運転手に徹して、もてなしてくれた。 　景子が戻り、北見の狂気めいた気配は潜んでしまった。再び訪れた猶予期間であったが、優穂にとって残酷な未来は、刻一刻と迫り始めてきていた。 　優穂の誕生日の翌日、いつも通り北見が出勤するのを見届けてから、彼も学校へ行く支度をした。母親を脅迫の対象にされている為、なるべく彼女を一人にしたくはなかったが、元凶が会社に行ってしまえば、安心して家を出ることができた。 　しかし、その日、その元凶は、優穂が家を出て暫くした後に、再び舞い戻ってきた。 「あら、輝弥君、忘れ物でもしたの？」 「そうなんだ。」 「何？取って来てあげる。」 「いや、ちょっと探さないといけないから…。」 　そう言って北見は二階へと階段を駆け上っていった。その後ろ姿を見上げて、小首を傾げた景子だったが、徐に自分も二階へ上がっていく。その先で彼女は、花瓶に生けられた向日葵が萎れているのに気付き、手を伸ばした。しかしそれは花びらに触れる前に、何か重いものが雪崩れたような音によって妨げられた。 　彼女は驚いて音のした方へ向かう。 　二階ホール右側の扉を開けると、書斎の扉が開け放たれているのが目に入り、近付くと、部屋の惨状を見て面食らった。壁一面のシェルフに収まっていた本が、床を覆いつくし、足の踏み場もない状態になっている。 「何、この状況？」 「あぁ、さっき此処の本を一冊引き出したら、こうなった。こっちの本は自分で出したんだけど…。」 「あなたらしくないわね。…こんな風にしないと、探し物は見つからないの？」 「探しているのは一枚のＣＤーＲＯＭなんだけど、この中の一冊に挟んで気付かずにしまってしまったみたいなんだ。」 　北見は床に座り込んで辞書や専門書の背表紙を持って、ぱたぱたと床に向けて振っている。 「手伝いましょうか？」 「うん…。あ！いや、ほら、あったよ。」 　一冊の本から真っ白なＣＤーＲＯＭが転がり出た。それをケースに入れると、申し訳なさそうに景子の顔を見た。 「もしよかったらだけど、片付けてくれたら有難いな…。」 「しょうがないなぁ。…でも、分類とかよくわからないし、適当に並べるわよ。」 「それでいいよ。本当、ご免。」 　景子を残して部屋を出ようとした北見に、彼女は背後から声を掛けた。 「輝弥君、あなた、優穂にセクハラしたんですってね？」 　北見はゆっくり振り返り、景子の目を見る。それに不信感は籠ってなさそうだと判断した。 「セクハラ？…優穂君が言ったの？僕が何かしたって？」 「ちょっと、触られたみたいな感じなこと言ってて…。詳しくは聞いてないけど。」 「あぁ、そう。…仲良くしたかっただけなんだけど、そんな風に言われるなんてね。」 「コミュニケーションの一環だったんでしょう？」 「まぁ、ね。…彼は父親を知らないから、極端に大人の男性が苦手なのかもね。」 　そう言われて、景子は口角を上げたが、その瞳の色を暗くした。 「兎に角、僕が努力するから、景子さんは見守っててよ。じゃあ、会社行ってくるね。」 　扉を閉め、二階ホールへ出ると、北見は軽く舌打ちした。 　階段へ向かうと、飾り棚の上の向日葵の活けられたクリスタルガラスの花瓶を手にする。花瓶には水が入っておらず、そこに飾り棚の中から取り出したペットボトルの水をなみなみと注いだ。そして注意深く向きを確認して、元の棚の上に設置した。 　美術部員達がぼちぼち帰る準備を始めた昼頃、優穂のスマートフォンに電話が掛かってきた。母親の景子からだった。 「お母さんだけど。もう部活終わった？」 　いつも通りの明るい声。 「うん、今から帰るけど…、どうかした？」 「実はね、私、入院することになったの。」 　優穂は驚愕で気が動転する。 「入院って？…何があったの？」 「大した事ないのよ。恥ずかしいんだけどね…階段から落ちたの。何故か階段が水浸しになってて、そこでつるっと…。」 　そこで景子は笑い出す。 「笑い事じゃないだろ!?」 「ご免、でも、本当に一瞬で一階まで滑り落ちちゃって…！」 「怪我の具合はどうなの？」 「大丈夫よ。自分で救急車呼んだくらいだから。…右足首の骨と大腿骨に少し罅が入ってるって。」 　優穂は少し安堵させられる。 「病院どこ？」 「あ、それでね！持ってきてもらいたい物があるから、こっちへ来る前に家に寄って、家に着いたら電話して欲しいんだけど。あと、今日はハウスキーパーさんが来てくれる日なんだけど、まだ来てなかったら、階段が水浸しだから、掃除してくれたら助かるな。よろしくね！」 　そこで電話は切られた。優穂は慌てて部室を飛び出した。 　家に帰ると、階段を調べてみた。下の方は小さな水滴が見受けられる程度だったが、上へ行くと、その水の量は増え、辿っていくと、飾り棚の上の花瓶に行き当たった。調べてみると底の部分が少し欠けていた。ここから水が漏れ出したのだろう。 ――この花瓶、結構分厚いガラスなのに…。 　否応なく北見の顔が浮かんだ。これは問い質す必要があるだろう。 　景子に指示されたタオルやマグカップ等、一式を持って病室へ行くと、笑顔の景子が優穂を出迎えた。病室は二人部屋だったが、同室の患者はいないようだった。 「あ、荷物、有難う。取り敢えずそこの棚に置いといて。」 　言われた通りに荷物を棚の上に置くと、優穂は水浸しの階段の原因を景子に告げた。 「そう。あの花瓶、好きだったんだけどな。今朝、水を変えた時に乱暴に置き過ぎたのかもね。」 　優穂は北見の影を見出す為の質問をする。 「母さんが二階に居るの珍しいよね？…何か頼まれた？」 「二階だってたまに掃除しに行ってるわよ。…今日は書斎の本を片付けるように頼まれたから居たんだけど。」 「やっぱり…！」 　確信したと同時に、北見が病室を訪れた。 「大丈夫？」 「大丈夫よ！…仕事も予定通りにやるつもり。」 「精密検査は受けた？」 「えぇ。二、三日様子をみることになったけど。」 「あのさ…！」 　優穂は二人の会話に割って入った。そして北見に単刀直入な問いをぶつける。 「あの花瓶を傷付けたの、あなたじゃないんですか？」 「あの花瓶って？」 　北見はピンと来ないといった表情で、優穂を見つめた。 「私が滑っちゃった原因。階段上のとこに飾ってある花瓶から水が漏れてたんだって。」 　景子が代わりに説明した。 「へえ…気付かなかったな。」 「気付かないくらい少しずつ流れてたのよ、きっと。あの花瓶は私しか触らないし、私が罅を入れてしまってたんだわ。」 　景子の言葉に、優穂は反論の余地を失った。 　景子の体を気遣い、病室を後にすると、不本意にも北見と二人で帰ることになった。逃げるように足早にエントランスへ向かう優穂の左肘を、がっつりと北見は掴んで捕らえる。そして「逃げるな」と彼の耳元で囁いた。 「本当はあんたがやったんだろう？」 　無理矢理乗せられた車の助手席で、優穂は再度確信をぶつける。 「…そうだったとしても、回避できなかった彼女が悪い。…これは事故だよ。彼女だって自分が原因だって言ってたじゃないか。」 　その言葉を受け入れずに、優穂は北見の横顔を睨みつけた。 「母さんが急に帰って来て、予定を狂わされたからやったんだろう？これは制裁のつもり？」 　鼻で笑った北見は、一転して本性を現した。 「…楽しみを邪魔されて喜ぶ人間はいない。そうだろう？」 　北見の左手が、優穂の太腿を撫で始める。反射的にその手を振り払うが、執拗に弄られる。 「まだ僕から逃げようとしてるのかな？今回はあの程度の怪我で済んだけど、…君の態度によっては、次はどうなるか分からないよ？」 　優穂の抵抗が止んだ。北見は上機嫌になり、太腿から更に中心へと手を移動させる。 「家に帰ったら、直ぐにセックスをしよう。もう、夜まで待ったりしない。」 「ハウスキーパーが来てるはずだ。」 「今日は断ったんだ…。」 　優穂は固く目を閉じる。逃げ道はもう何処にもなかった。