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第14話「燈」~DAEMON~

「おはよう、優穂。」  翌朝、北見の声で優穂は目を覚ました。いつもと違う天井に、ここが夫婦の寝室だという事を思い出し、慌てて身を起こす。腰が軽く疼いた。 「これから僕は会社へ行ってくるよ。君は部活かな?…体が辛いなら、今日はゆっくり休んでいてもいいと思うけど。あと、朝食、準備しておいたから。昨日は昼も夜も食べなかっただろう?ちゃんと食べるんだよ。」  そう言い残して、北見は部屋を出て行った。優穂はそれを見送ると、自分一人の気配になったと確信してから、ふらつく体で部屋を抜け出した。  二階へ行くと、自室がある方とは逆の扉を開けて、昨日、行為の行われた客室へ赴いた。扉を開けて、辛そうに息を吐き出す。ベッドのシーツは剥がされており、セットされていたビデオカメラと三脚もなくなっていた。北見が片付けてしまったのだろう。  その部屋の横の洗面所で、素早く身嗜みを整えてから自室へ行くと、制服ではなくTシャツにジーンズを着用し、上から半袖のリネンシャツを羽織った。財布とバスの定期券だけをボディバッグへ入れると、彼は思い切ったように家を出た。 ――逃げることは許されないのに…。  優穂は入院中の母の事を過らせた。彼女は北見にとって妻ではなく人質だ。彼の意に反することをすれば、母の身に危険が及ぶだろう。 ――だけど、今日だけ…。今日だけでも、あんな事から解放されたい!  今夜もきっと、北見は優穂の体を執拗に求めてくるだろう。考えただけで堪えられなくなる。  バスに乗り、自分が通う高校の前を通り過ぎた。それから五つほどバス停を通過したその先で、追加料金を支払ってバスを降りた。初めて降り立った町だった。  優穂は目的を持って歩き出す。目指しているのは姫川燈が一人暮らしをしているというアパートだった。彼に口止めされていると言っていた担任教師から唯一聞き出せたアパート名。それを手掛かりに調べた住所に向かっている。  二十分程歩いただろうか、目的のアパートは見つからず、優穂は足を止めた。昨日の朝食以来、何も食べていない優穂の体に、灼熱の太陽が容赦なく攻撃をしてきているようだった。倒れそうになるのをグッと堪える。そして、ふらついた体に喝を入れて、十分程前に通ったショッピングモールへと進行方向を変えた。  モール内の本屋へ辿り着くと、冷房の冷たい空気に少しだけ救われた。そこで地図を探して再度、アパートの場所を確認するつもりだった。途中、専門書のコーナーに差し掛かると、一角に集められたマニアックな専門書の背表紙の数々が目に入った。『人体解剖マニュアル』や『違法ドラッグ辞典』、『ザ・殺人術』や『完全犯罪読本』等のタイトルが掲げられている。 ――殺害…方法…。  一瞬、北見を殺せるなら殺してしまいたい、という気持ちに駆られた。そんな事が出来る筈がないと思いながらも、一冊の本を手に取る。『殺害トリック』と書かれた、その本の冒頭には、過去に実際に起こった国内外の殺人事件の詳細が取り上げられていた。心臓が高鳴っていく。北見は証拠を残さずに優穂の母に怪我を負わせた。それなら自分にも何か仕掛けることができるかもしれないのだ。 「物騒なもの見てるな!」  不意にすぐ隣から、聞き覚えのある声が聞こえて来た。優穂はハッとして声の主を確認する。そこには探し求めていた姫川燈の姿があった。その瞬間、ふらりと優穂の体が崩れた。 「あ、おい!」  既の所で姫川が抱き留め、優穂は手放しかけた意識を辛うじて取り戻した。 「大丈夫…。ご免…。昨日から何も食べてなくてさ…。」 「はぁ!?…何やってんだよ。…歩ける?」  優穂が頷くと、姫川は彼の手首を引き、フードコートへ連れていき、テーブルに着かせた。夏休み期間だが、平日の昼前というところで、ブランチ中の主婦達や小中学生が、ちらほら居るくらいで、そこまで混み合っていない。 「意外とスポーティなんだね。」  ウィンドブレーカーにスウェットパンツ姿の姫川は、優穂の思うイメージと少し違っていた。 「意外と?」 「もっと王子様みたいな恰好してると思ってた。」 「どんな格好だよ!?」  突っ込みつつ、姫川は立ち並ぶファストフード系の店を眺めた。 「…何か買ってくるけど?」 「有難う…。でも、食欲ないんだ…。」 「…でも何か口に入れろ。でないと病院連れてくからな!…取り敢えず、待ってろ。」  そう言って、姫川はフードコートがら走り去ってしまった。優穂はその後ろ姿を追いかけたくなったが、彼を信じて待つことにした。  暫くして、姫川が薬局の袋を下げて帰って来た。そして袋の中の栄養ドリンクと栄養補給ゼリーが差し出された。 「ガス欠になる前に補給しろ。」  優穂は素直に受け取った。栄養ドリンクが優穂の空っぽの胃に染み渡る。 「この近くじゃないよね?北見君の家って…」 「その名前で呼ぶな!」  反射的に叫んでしまった優穂に、姫川は言葉を途切れさせた。 「ご免。…優穂って呼んでくれよ。」 「優穂ね。じゃあ、俺のことも燈でいいよ。ちゃん付けは無しな!」  姫川は引くことなく、優しく微笑んで受け入れてくれた。 「うん。…俺がここに居る理由はね、燈を探しに来たんだ。」  思い切って下の名前で呼び、真実を告げた。その瞬間、姫川の顔が少しだけ曇った。 「情報はどこから?…まあ、あの担任だろうけど。…探してた理由は聞きたくない…気がする。」  姫川から拒絶の空気が立ち込めてきていたが、構わず優穂は話を切り出す。 「今日さ、俺を燈のとこに泊めてほしいんだけど…。」 「悪いけど無理!駄目!そういうの一切お断りしております!」  即答で断られたが、優穂は食い下がった。 「どうして?一人暮らしなんでしょう?」 「…なるべく人に干渉されないようにしてるんだ。ご免。」  姫川は頑なに拒んで来た。優穂は最後の手段に出る。 「…俺さ、母親の再婚相手に…性的虐待受けてるんだ。今日もあいつが帰ってきたら、相手をしないといけない…。」  涙が浮かんだ目で姫川をみると、彼は言葉を詰まらせ、両手で頭を抱えてテーブルに伏せた。 「…助けて欲しいのか?」  その体勢のまま問われる。   「迷惑掛けるのは分かってる。…一時的でいいから、今日だけでも匿ってほしい。」  姫川は顔を上げると溜息を吐いた。 「…抵抗出来ない?」  優穂は頷く。 「…最初は俺が中学の時に気の迷いで、…あいつの事好きになって、その時の証拠とか、ちょっとあって…。それを母親に知らされるのが嫌で脅迫されてたんだけど、今は…なんか、母親自体が人質みたいな感じになってしまった。」 「母親は気付いてないのか?」 「うん。言おうとしたけど、…無理だった。母親の前でセックスとかレイプとか言いたくないし…。性的虐待って言葉も無理だった。」  再び姫川に溜息を吐かれた。 「…そのさ、証拠ってやつ、データ化されてるの?」 「うん。あいつのパソコンに保存されてる。パスワードが分からなくて、消すことが出来ない。」 「ふぅん。ちょっとスマホ貸して。」  姫川が手を差し出した。 「今、持ってない。家に置いてきた。…GPSで見張られているから。」 「あ、そう。」  姫川は軽く舌打ちすると、ポケットから自分のスマートフォンを取り出した。優穂はそれを見て驚く。 「え、持ってないって言ってたよね?」 「そんなの、番号知られたくないからに決まってるだろう。」  文句のありそうな優穂を制して、姫川が問う。 「口に出したくないかも知れないけどさ、変態の名前教えて。」 「え?あ…、北見輝弥。」  姫川は北見の事を検索し始めたようだ。 「株式会社ケイ・クラウンの社長。事業内容は美容機器、化粧品、フィットネス機器の企画開発販売。…二十六歳、若っ!そして変態のくせにイケメン!…あ、ご免。」  正直な感想の後、優穂の気持ちを察した姫川は謝った。優穂は首を横に振って許容する。 「奴自体はSNSの類を一切やっていない。でも会社のブログはあるみたいだな…。」  そこで姫川はスマートフォンの電源を軽く押して、ポケットにしまった。 「よし、そしたら、俺の家に案内してやるよ。」  姫川が席を立ち、優穂も慌てて立ち上がった。 「いいの?」 「ああ、特別にね。行くぞ。」  一変して応じてくれた姫川に驚きながらも、優穂は飛びつくように彼の後を追った。  ショッピング・モールを離れ、住宅街を暫く歩くと、クウェイル・コーポⅠという掠れた文字が壁面に浮かぶ、二階建ての古びたアパートが姿を現した。全部で八世帯が入居出来るそこは、全て入居者で埋まっているようだった。  姫川は一階の左から二番目の部屋の扉を開けて、優穂を招き入れた。 「そうぞ。」  中に入ると、外観からは想像出来なかった真新しい壁紙とピカピカのフローリングに驚かされた。エアコンも効いている。 「エアコン、つけっぱなしなんだ?」 「いや、ここに来る途中で操作しといたんだ。…こいつでね。」  姫川はスマートフォンをひらひらと振って見せる。 「今はそういう時代だろう?」  言われて優穂は、何が機械に疎いだ、と、心の裡で突っ込んでみた。  玄関から調理器具の見当たらない流し台の前を通り、リビングへ通される。最初に目に留まったのは、机の上のモニター三台が連なった光景だった。その机の下で、パソコン本体の電源部分がチカチカと点滅している。  1Kの間取りのその部屋は、他は三人掛けのソファがあるだけで、テーブルやテレビは置かれていない。 「何もないんだけど、取り敢えず、そこに座って。」  パソコン机と真反対の壁に置かれた、三人掛けのソファに座るように促された。優穂がそこに落ち着くと、姫川はパソコンの前に座りマウスに手を置いた。スリープ状態だったパソコンが再起動する。何気に優穂はパソコンの中央の画面が見える位置に移動した。そこには無数のアイコンに囲まれた、あまり可愛いとは言い難いペンギンのイラストがあった。 「ペンギン…微妙にマッチョ。」 「これタックス君。知らない?…俺、Linuxユーザーだからさ!」  若干、自慢げな姫川の物言いは、優穂には伝わらなかった。 「ま、いいけど。…これから優穂の黒歴史を削除してやるよ。」  姫川は北見の会社のホームページや、複数のフォルダ、そしてテキストインターフェースを立ち上げた。 「ハッキングとか出来るの?」  優穂は思わず立ち上がり、姫川の下へ寄った。 「出来るよ。でも、これからやるのはクラッキング。…ハッキング自体は犯罪じゃないけど、クラッキングは立派な犯罪。」 「犯罪…。大丈夫なの?」 「クラッキングは痕跡残るからね。…まあ、上手くやるつもりだけど。…ちょっと試したいマルウェアがあったんだよな。」 「マルウェア?」 「スパイウェアって言った方が分かりやすい?」  話しながらも姫川の作業は続いていく。優穂にとっては映画でしか見た事のない世界だった。  極端に自分への詮索を嫌う姫川燈という人物の知られざる背景に、優穂は興味を持たずにいられなくなった。

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