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Dinner ‐2‐

今までこんなにもキスをするだけで満足感を得られた事があっただろうか。ただ、唇を合わせる。時折角度を変えて食む。幼い口付けだ。 「…………」 「…………」 充分に堪能したはずなのに、目の前にある顔が物足りなさを感じているように見えて、再び口付けた。焦ったかったのか、唇を舐められたのは俺の方だった。 資料室の扉が閉まった瞬間、この逢瀬は最後だとわかった。課長の言葉の意味はわからなかったけれど、それだけはわかった。 拒否されたのだ、と。 当然だ。相手はゲイではない。まして上司だ。それも順調に出世する事が決まっているような人間が、新入社員のゲイに構い続ける事はマイナスでしかない。 わかっていたのに俺は何故、この人に何度も繰り返しキスをし続けていたのだろう。気付きたくも知りたくもなかった気持ちが、閉ざされた扉によって一気に溢れ出してしまった。 そもそも逢瀬だと思っていた自分に驚いた。順風満帆でろくな苦労も知らずに生きてきたであろう事がこの人のすべてから滲み出ていたのが気に食わなかった事がキッカケだったのは間違いないのに。 綺麗なものに汚点を残してやろうという、実に子供じみた行為だ。その行為に夢中になっていく様が手に取るようにわかるのも愉快だった。 いつからだろう。キスにそれ以外の意味を持ち始めたのは。この人から嫌がる振りをしながらも、期待に満ちた視線を向けられるようになった頃には俺の気持ちは変化しつつあった。だから仕事以外での付き合いを持つようにもなったし、キスの回数も増えていったと思う。 でもそんな自分を認めたくなかった。もっとも苦手とし、可能な限り関わり合いたくないタイプの相手に、特別な想いを抱き始めているのかもしれないなんて、俺のプライドが許さなかった。 結果、より冷たく意地悪く、嫌味しか言葉に出来なくなった。そんな中でのこの人のあの言葉。さらに他にもいるんだろう、なんて言われたら堪らなくなった。 認めざるを得ない。 この人が可愛くてたまらない事。 この人を手に入れたいと思う心。 この人が好きだという事を。 名残惜しさを感じるけれど、このままでは話が出来ない。唇を話してほんの少しだけ潤んだ目の前の両目を親指で撫でる。効果の程はまったくわからないが、マッサージもどきのつもりだ。この人に伝わっているのかはわからないけれど。 その証拠に、微かに首を傾げている。確かにわからない事だらけだろう。わざとわからないように、曖昧に、あらゆる部分で俺はずっとこの人を弄ぶかのように扱ってきたのだ。 すべて俺の保身のためだけに。 ただでさえ職場恋愛は結婚に至るようなカップルは例外だが、リスキーだ。まして男同士となれば公になってしまったら、よほど理解のある職場でない限りは転職を余儀なくされるような人々からの圧力、会社からの待遇を受ける事は容易に想像出来る。 ゲイである自分自身を恥じてはいなくとも、処世術が必要不可欠なのだ。それなのに、コンプレックスやちょっとした悪戯心を刺激されただけで、こんな結果になるとは思ってもみなかった。 目を閉じたままの瞼を撫で続ける俺に、首を傾げているこの人が問いかけてくる。 「葛城は…葛城にとっての俺は一体なんなんだ」 押し倒した時の抵抗が嘘のように、おとなしくなすがままだ。つい先程のキスもそうだし、お互いに言葉にしていないだけできっとバレていると自覚している。 「その質問に俺は正直に答えていいのかわかりません」 そして、この人は俺たちの関係を互いの間で明確なものにするリスクなど、よくわかっていない事も俺にはわかる。 どれだけ俺を受け入れてくれていても、この人はゲイではないのだから当然だ。 「ただ、ふたつだけならはっきり言える事はあります」 瞼を撫でる手を離し、ゆっくりと目が開いて俺を見据えてくる。高鳴る鼓動に自分で嘲笑してしまいそうだ。何も知らない子供ではないくせに、緊張しているからだ。 「俺はあんた以外にこんな事をするような相手はいない」 これが一つ目。正確には、今は、がつくけれど、わざわざ言う必要はないだろう。 二つ目は。 「俺はあんたを可愛いと思ってる」 二度目の告白には動じている様子は見られなかった。意味する事は伝わっているはずなのに。沈黙がすべて相手にバレているという自覚が正しいと、やはり同じくお互いに確信している事を表していた。 ふっと会社でよく見る優しげな笑みを浮かべ、安堵したのか小さく笑い声を上げた。 「なんだ。そうか」 良かったと呟いて俺の両手を包み込んでくる。 「やっぱり、わからない事は話し合わないとダメだな。わかっていたのに、気持ちが揺らいでしまう事には正しい判断が出来ない俺は、お前の言う通りに世間知らずの坊っちゃんなんだろうな」 ぎゅっと両手を握りしめられて、穏やかな笑顔が真っ直ぐに俺に、俺だけに向けられる。 「こんなにもお前の手は温かいのに」 「……課長だってあったかいでしょう」 「俺は体温が高いからな。いつもこんなもんだよ」 そんな事はとっくに知っていた。何度も交わしたキスの中で、手に触れた事も、肩を抱いた事もある。知らないのは一つだけになってしまった。 俺の葛藤を知ってか知らずか、楽しそうにぬくもりを確かめているようで、にぎにぎと両手を揉まれている。キスだけでとろけてしまうこの人を、もう一度押し倒してしまったら俺は止まらないだろう。 「課長は……。神谷さんは、嫌じゃないんですか?」 「えっ」 「俺はゲイですよ」 「や、それ、は…知ってる」 動揺して視線が泳ぎだしたのは名前を呼んだからだと思う。今まで一度も呼んだ事はなかったから。 「神谷さん」 促すように囁く。控え目に視線が戻ってきたら、すぐにぽすんと胸に頭を押し付けられた。 「嫌だったら、部下のくせに生意気で、キスしてくるようなゲイの家になんて来てない」 神谷さんなりの精一杯な嫌味が込められた言葉に俺は高鳴る鼓動も恥じる必要はないんだと笑う。抱きしめた体から響く鼓動も、俺と同じだったから。

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