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Dessert ‐1‐

自分が恵まれているのであろう事は幼い頃から自覚していたと思う。大人になってからこそ気付いた事ではあるが、思い返してみても苦労と言えるような経験をした記憶がないのだ。 不自由を感じた事もなければ、友人にも恵まれ楽しい学生時代を過ごしてきた。バイトをした事もあったけれど、金銭的な理由ではなく社会勉強のためにすぎなかった。 彼女に困った事すらない。幾度かの出会いと別れは人並みに経験してきているし、寂しさや悲しみも味わったとはいえ、やはりそれもまた人生におけるごく普通の事だ、という認識になっている。 どうしたらいいのかわからない、と迷うのは初めてだった。 相手が同性である事が最大の理由だとは思うが、今まではマニュアル通りに行動をしていただけで、嫌われたくない、なんて思って努力をした事はなかったと思う。 もちろん今までの彼女たちを好きだと思った気持ちに嘘はなかったと断言は出来る。けれど結婚を意識した事はなかったからか、どこかでいつかすれ違い別れが訪れるものだとも思っていた。 いまでもまだ結婚なんてものに興味はない。しかし葛城とは男同士なのだから、興味があろうとなかろうとどうでもいい事だ。 そう思って気が付いた。 男同士には目に見える形のものが存在しない事に。 気持ちには形がないのだから当たり前だが、男女間よりもはるかにハードルが高い事も。 付き合っている、と公言して牽制を含めた自慢をするタイプもいるけれど、俺はしない。隠したいわけでもないが、わざわざ公言する必要性を感じた事がないからだ。お互いが相手を想っているのならば、充分だと思う。 どれだけ公言して牽制したところで壊れるものは壊れてしまう。人の気持ちは移ろいやすいものだから。 どうすれば付き合っている、という確証を得られるのだろうか、と考えた末に出た結果が直接問う、だったわけだが、同時に過ぎったモノは行為に至る、だった。 そのために招いたわけではなかったが、幼い子供のような「付き合いましょう」なんて言葉がなくとも通じ合い、当たり前に触れ合った。 それは今まで経験した事のない快楽の世界で、果てたばかりの心地良い疲労感は葛城の腹に吐き出した体液を拭き取る事さえもったいないと思わせた。それを葛城がシャワーで洗い流している間に、どうやら俺は寝てしまったらしい。 翌朝、男同士の行為についての疑問を問いただして、少しがっかりしたのは一ヶ月前だ。その時は次の週末に準備した物を使う、という明確な目的を持って再び自宅へ招くつもりでいた。 はずなのに。 納品する直前だった商品に欠陥がある事が判明して、それどころではなくなってしまったのだ。幸いどうにかなったものの、おかげで後回しにしていた通常業務もたまりにたまりまくり、この一ヶ月は散々だった。 やはり仕事が理由の疲労感は体力面だけではなく、精神面にも重くのしかかる。 もう少し頑張ればやっとまともな週末を送れる、と思ったその油断が一ヶ月間、一切出なかった目の症状が一気にきた。仕事を終える頃には、見えるものすべてが歪んでいた。 それでも家に帰れない事はない。疲れ果てている課員に打ち上げは来週にしようと告げて会社を後にすると、駅に向かう途中で葛城に引き止められた。その顔も明らかに疲労感の漂うものだった。 「どうした?何かあったのか?」 思考は仕事の事で目一杯になっていて、何かまたミスがあったのだろうかと思って、余計に視界が歪み、軽く目眩がした。 「何かあったのはあんたでしょ」 強引に腕を掴まれ家とは反対方向の電車に乗せられてしまう。それは葛城の家に向かう路線だ。 距離こそ大差ないが、俺たちの家は会社を挟んで正反対に位置している。しかし俺は一度乗り換えなければならないが、葛城は一本だ。 「キツイくせに、無理しないでください」 混雑した電車の中、手の平で両目をふさがれた。冷房の効いている車内でも、この混雑ではあまり効果がない。手の平は軽く汗をかいていて温かく、目が癒されていく気がした。 「……気付いていたのか」 「当たり前だろ」 俺は混雑に乗じて葛城に寄りかかる。この上なく嬉しかったのだ。 「心配してくれてありがとう」 素直に礼を告げると、見えていないのに照れているであろう事が手の平から伝わってきて、葛城に導かれるままに葛城の家へ向かう事にした。 揃って倒れ込むようにソファへ座り、同時に深いため息が零れて笑う。 「明日が休みだと思うと、疲れているのに寝るのがもったいなくなる」 疲れているのに子供じみた事を言う葛城が可愛くて、小突いてやると屈託のない笑顔を浮かべるから、より可愛く見える。 「本当に葛城は可愛いな」 「ちょっと、それやめてくださいよ」 「可愛いんだから仕方ないだろう」 ほんの少し不満気な顔をして、再び両目をふさがれる。帰宅してすぐにつけたエアコンの稼動音だけが部屋に響いた。 「可愛くない事をしようと思ってんのに?」 言葉の意味を理解するまでに時間を要したのは拒否ではなく、単純に疲れているからだ。 「元気だな」 「敦宏さんと違って若いので」 「その減らず口を縫い合わせてやりたくなるよ」 ふさがれたままなのに、気配で近付いて来るのがわかる。それまでの声からは想像出来ない甘さを含んだ言葉が囁かれた。 「なら、敦宏さんがふさいで」 ゆっくりと離れていく手の平。先程まで歪んでいたはずの視界がクリアになっていて、目の前にある葛城の顔がよく見える。一ヶ月前に見た、真剣な眼差し。言われるままに触れるだけのキスをした。 「それだけじゃ俺の減らず口はふさぎきれませんよ」 「わかってる。けど、むちゃくちゃ眠いんだよ」 「やっぱり年の差はデカイなぁ」 からかわれて俺はもう一度口付ける。触れるだけではないキスを。 疲れているからだろうか。すぐ息が上がり唇を離すが、葛城はそれを許さなかった。何度も繰り返し、呼吸をするために離してもまたふさがれる。 ふさぐのは俺だったはずなのに。 葛城が満足する頃には俺はソファへ完全に押し倒されていた。 「……健人」 「ん、なに…?」 「風呂に、入りたい」 「……俺は気にしないけど」 「俺が気になるんだよ。二人とも汗だくな上に連日徹夜状態だったんだから」 しぶしぶ納得してくれて、先にシャワーを浴びさせてもらったが、やはり俺は葛城が出てくるよりも先に睡魔に襲われ眠ってしまった。

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