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Breakfast ‐1‐
今年はどうやら残暑が厳しいらしい。
ここ数年、毎年ニュースで何年に一度のなんたらかんたらと騒ぎ立てているから、どうでもよくなってくる。ただ、ジメジメとした湿気の多いこの空気は体にまとわりついて不愉快極まりない。
避暑地に行きたい、と願いながらも今日も今日とて外回り。
営業に配属されて不満だったのはこの外回りが最大の理由だ。特に新規開拓しようものなら、頭の下げ合い合戦でしかないだろ、と思っていた。
そんな事よりも俺はあらゆる物を多面的に見て、俺にしか出来ないような企画を考えた上で、開発に携わりたかった。しかし実際に働いてみると、そこまで悪くないと思えてきた。営業とは人と人との繋がりで成り立つ。極端に言ってしまえば人生の縮図かもしれない。
たかが数ヶ月でも、今まで先輩方が築き上げてきてくれた恩恵を受けて俺にも仕事が出来るのだと知った。
入社当時、神谷に言われた言葉を思い出す。まさにその通りだ。
とはいえ、やはり炎天下の外回りはキツイ。きっと真冬も同じなのだろうと思うと余計に嫌になる。
未練がないと言えば嘘になるが、頃を見計らい異動願を出すつもりでいた考えはなくなった。配属されたからにはそれなりの理由があるのだろう。ならば応えなければならない。
だから今日も俺は頑張るんだ。
あまり人の来ない埃っぽい資料室で、ろくにエアコンも効いていないのに、汗だくのまま口付ける。
「ご褒美」
意地悪く笑うと、神谷は苦笑した。
「安い褒美だな」
「まだ前菜だからね。メインディッシュは今夜、思う存分いただかせてもらうつもりなんで」
耳元で囁いて軽く噛み付いてやったのに、くすぐったいと言って給料日前だからうちで何か作って食べようと提案された。
自分がメインディッシュとして俺に食われる、という発想がこの状況下で浮かばないのが神谷らしい。
もう一度口付けて、意味が通じなかった事への罰のように、ほんの少しいやらしく舌を絡め取ってやった。
本当にもう、どうしようもない人だ。
付き合う事になって、体も繋げて、順風満帆に思えなくもない俺たちだが、早速小さな壁にぶつかっていた。
神谷の影響で同僚たちとも徐々に打ち解け合えるようになったのは、仕事上では確実にプラスな事だ。しかしそれは同時に神谷と二人きりで過ごす時間が減る事に繋がる。
目頭を押さえる仕草を見てしまうといてもたってもいられなくなるのに、何も出来ない。
休日以外は毎日顔を合わせる、というのは嬉しいようで嬉しくない。神谷は課長で俺は新入社員だ。慣れない入社当初ならまだしも、神谷や他の先輩の指導の下、きっちりと仕事をしていたら、同期の中でトップになってしまった。
さらにそれを同期に祝われてしまう始末だ。
まだ、一回しか抱いてない。
それも俺に抱かれるために忙しい日々の中であの人は自分でそのための準備までしていて。
正直に言って興奮のあまり覚えていない。忙しくて疲れ果てていたせいもあるだろう。だからこそ、今度はゆっくりと楽しみたい。
のに。
神谷課長は部下にとても慕われている上司だ。俺だけが独占するわけにはいかない。公私混同はするべきではない。……仕事中に我慢出来ずにキスをしてしまう俺が言っても説得力に欠けてしまうが。
神谷も神谷だ、と思ってしまうあたり、俺は自覚より重症なのだろう。ヤキモチや独占欲といった可愛らしい事ではなくて、他の部下たちと談笑している姿を見ると、あまり俺の見た事のない笑顔だったりするのだ。それを悔しいと思ってしまう。
実に幼稚な感情だが、俺にとっては二人目の恋人だ。神谷はあいつとは確実に違うタイプだとわかる。ゲイではない上に同じ職場の直属の上司という部分にはほんの少し、痛い記憶が蘇ってしまうけれど。
そんな気分のまま神谷の家に来たからか、座り心地が良過ぎて逆に居心地悪さを感じるソファへ寝転ぶ。スーツが皺になるぞ、と言われても動く気になれない。
俺が寝転んでいても、すぐ隣に座れるデカさのソファなのに、神谷はしゃがみ込んで俺の顔を覗き込んできた。
「何をそんなに拗ねているんだ?」
「拗ねてません。暑くて怠いだけ」
あながち嘘ではない。部屋に入ってすぐにつけたエアコンも、まだこの広いリビングを冷やしてはくれず、体には不快な汗でシャツがぺったりと張り付いていた。
額にも髪が張り付いていて、神谷が俺の髪をかきあげる。
「風呂、沸かしてるから。入ればすっきりするだろう?」
わかっているのか、わかっていないのか、わからないまま、優しく微笑んでいる神谷へ意地悪く答えた。
「一緒に?」
きょとんとしてから苦笑され、かきあげた髪をぐしゃぐしゃにしながら頭を撫でられる。これは可愛いと言われる流れだ。
「わかりやすいな、健人は」
そう言って口付けてくる。
結局、夕食はチェーン店の安いラーメン屋で済ませてきた。スーパーは閉店している時間だし、食材を買っても使いきれなかった物は無駄にデカいだけの冷蔵庫の中、使われる事なく無駄になる事は明白だった。
「メインディッシュは俺なんだろう?一緒に入ったら、さすがに俺も見られながら準備するのは恥ずかしいんだけどな」
伝わっていないと思っていた昼間の囁きを繰り返されて、今度はおれがきょとんとしてしまった。
「会社でそういう雰囲気になったらマズイから、わざと誤魔化しただけなのに、そんな事で拗ねていたのか」
「…だから、拗ねてない」
「どんなに強がっても、俺にはもう可愛くしか見えないって、何度可愛いと言ったら健人は信じるんだ?」
自然に恋人を可愛がろうとするのは、神谷が今までの恋人へ当たり前にしてきた事なのだろう。
俺の知らない敦宏。
「俺に、やらせてくれたら信じる」
すぐに理解出来なかったのか、思案顔を向けられた。
「俺のを入れる準備、俺にさせて」
「そ、れは…」
思案顔に戸惑いが含まれる。
「知ってるだろ。俺は主導権を握りたいタイプだって」
受け入れる準備を自ら済ませてくるのは、それだけ俺を欲しがっているという証拠であり、それはそれで嬉しい。けれど、俺にされる事で羞恥心を煽られるであろう神谷を見たい。
「……嫌だ」
「じゃあ信じない」
「健人が信じていなくても、俺には健人が可愛く思える事は変わらないからなぁ」
その通りだった。神谷も俺が信じるか信じないは重要視していないのだろう。嫌がるのは俺が見たいと思っている理由と同じだ。
朗らかに笑いながら、神谷は俺の髪を撫で続けている。やっぱり、昼間会社で見かける表情はそこにない。
神谷の見ている世界には俺だけが映っていればいい、なんて絶対に言葉に出来ないような事まで浮かんでしまう。
「健人」
呼びかけは拗ねている理由を問うている。
「……ムカついただけ」
俺の知らない神谷がいる事に。当然だとわかっているから、より腹が立って仕方がない。
撫でられるままの俺に、神谷はさらに優しく笑顔を向けてくる。
「だってあんた…他のやつと話している時、俺の知らない顔してる」
「当たり前だろう」
「……え、なんだよそれ」
撫でられていた手を払いのけて起き上がる。しゃがみ込んだままの神谷を自然と見下ろした。
「まったく、さっきの事といい…健人がこんなに可愛いとは思っていなかったな」
エアコンが効き始めたのか、体の不快感はなくなっていくのに、心の不快感は募っていく。可愛い、は褒め言葉だと思うが、男相手にはあまり使われない。言われた方はバカにされたように感じる事が多いからだろう。
俺が苛ついているのもわかっているはずなのに、神谷は俺の両手を取り、にぎにぎとし始めた。
「理由はどうあれ、俺は最初からお前が気になってたんだから。そりゃ他のやつらよりも健人の前じゃ素の俺になるだろ」
それは神谷が照れている時の癖だった。
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