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麝香

不穏が渦巻く空は、此の身を導いてはくれない。 粛然(しゅくぜん)とした月も、精彩(せいさい)とした星も行方を眩まし、一筋の光すら射しはしない。 ただ鬱々と、呑み込まれそうな程に暗澹(あんたん)とした雲が、頭上を覆っている。 駆けれども見下ろし、迷えども物言わず、息を切らしながら追い掛けようとも空は、是非もなく静かに見守るばかりだ。 何処へ向かおうとしているのか、頼りないこの手で何を掬えるのか、何が正しいかなんて誰も、求める答えを教えてはくれない。 「二井谷さん!」 飛び出してからずっと、前だけを見据えて全速力で駆け抜けた為に、声を張り上げれば呼吸が乱れる。 等間隔で街灯が立ち並ぶも、交通量に乏しい道は活気がなく、人気もないので静けさが漂っており、思っていたよりも声が響く。 連なるオフィスビルからは、未だまばらに明かりが漏れているものの、歩道を照らすには心許ない。 「はぁっ、は……」 懸命に駆ければ、先を行く二井谷が足を止めて振り返り、視線が及ぶ。 目深に被られたフードにより、表情まではよく分からないけれど、立ち止まってくれたお陰で距離がどんどん狭まっていく。 「お前……」 間もなく辿り着けば、闇に紛れた声がぼそりと、足を止めた身に降りかかる。 そうしてすぐに、息が詰まる程の衝撃に見舞われ、暫くは何が起こったか分からずに思考が混濁する。 「ぐ、ぅ……」 「テメエ何のつもりだ? デケェ声で喚き散らしやがって。気付かれんだろうが、バカかテメエは」 腹部に一撃、拳を叩き込まれたのだと察する頃には、胸ぐらを掴まれている。 つい先程まで、あっけらかんと饒舌に語っていたかと思えば、目の前には別人のような眼孔が映り込む。 ぎりぎりと締め付け、息が苦しくて咄嗟に二井谷の手を掴むも、生気を宿さぬ目が暗がりからじっとりと見つめている。 「邪魔するつもりか?」 「うっ……、ち、が」 「アイツ何やってんだよ。お前は措かれている立場を考えろ。いいか……、俺の手を煩わせたらテメエも一緒に沈めてやる。分かったな……?」 眉根を寄せ、息苦しさに耐えながら頷くと、ようやく解放される。 ごほ、と何度か咳をして、目尻には涙が浮かんでおり、衣服を掴んで自然と大きく呼吸を繰り返す。 瞳に映るのは、いつの間にか笑みを湛えている二井谷で、大丈夫かよと言いながら顔を覗き込んでいる。 誰のせいで……、と憎らしく思うも、手の甲で口元を拭いつつ見つめ、幾分かは落ち着いてきた。 「怒んなよ。いきなり騒がれたらびっくりすんだろ?」 くしゃり、と髪を撫でてから肩を叩き、二井谷がにんまりと微笑む。 軽口を叩いている間も、標的の行動は逐一目で追っており、何を告げるでもなく再び歩き出す。 ここまで来て退くわけにもいかず、脂汗を滲ませながらも肩を並べ、目当ての人物を視界に入れる。 「何で付いてきちゃったんだよ。由布が行かせてくれるとは思えねえけど」 「無理矢理来たッスから……」 「ああ、そう。若いって素晴らしいねえ」 「何すか」 「いやいや、何にも? そんなに見物してえのか? それとも言うこと聞いたふりして、やっぱ俺の邪魔しようとしてる?」 「俺は……、別に……」 邪魔をしようなんて思っちゃいない。 けれどもいけ好かない事は確かで、見ていて気持ちのいいものではないだろう。 「見てえなら勝手にしろ。ただ指示には従え。もたもたしてる暇ねえからな」 「はい……」 遠慮がちに、視線を逸らしながら従い、歩調を合わせて後ろ姿を見つめる。 怪しむような素振りはなく、目前では淡々と家路についており、駅を目指しているであろう事が窺える。 「ドカドカ歩くな。足音殺せ」 「え?」 「出来るな?」 有無をいわさぬ迫力に、うんうんと小刻みに頷くしかなく、咄嗟に言葉が出ない。 思えば確かに、傍らにて歩を進める二井谷からは足音が聞こえず、尾行にも相当慣れているようだ。 足手まといは嫌なので、細心の注意を払いながら踏み出すも、今度は足元ばかり見つめてしまう。 「お前……、ひよこかよ」 「な……、え? なんすか?」 「ハァ~……。まあ、いいや。出遅れんなよ」 額を押さえながら、深く溜め息をつかれて視線を向ければ、二井谷が笑む。 何がひよこなんだ、と頭上では疑問符が飛び交いつつも、なるべく足音を立てないよう注意はする。 少しずつ慣れ、前方へと視線を注ぎながら追い、隣からは言葉が途切れる。 静かに、虎視眈々と息を潜め、まるで茂みから獲物を狙う獰猛なけだもののように、傍らから気配が薄まっていく。 えも言われぬ緊張感に包まれ、どうして汗を滲ませているのかも分からず、息を殺して生唾を飲み込む。 タン、と軽やかに一歩踏み出された影が横切り、視線を滑らせた頃には風が吹いているかのように、見覚えのある後ろ姿が先を駆けていて息を呑む。 思わず立ち止まり、時が止まった視線の先では二井谷が標的に迫り、後ろ手に衣服の物入れを探って何かを取り出している。 手にしたと同時に接触し、背後から近づいて何かを頭から被せ、動転した人物が振り返ると同時に拳を叩き入れ、くずおれていく身体を引き摺って路地へとあっという間に入り込む。 姿が消えてからハッとし、慌てて追い掛ければ姿を見つけて安心し、建物との隙間を突き進んでいく。 「うぅっ……」 くぐもった声が、苦しそうに助けを求め、眼下で必死にもがいている。 事の重大さに直面し、自然と息遣いが浅くなるも、前を行く二井谷には一切の乱れも感じられない。 この男は、これから一体どうなるんだ。 当然の疑問がわき上がるも、知れたところで自分に何が、何かを変えられるわけでもないのに、鼓動がばくばくと一気にうるさく喚いて止まず、彼はずるずると被せられた袋に赤黒い染みを付着させながら無様に引き摺られている。 まるで自分を見ているかのようだ。 まだ起こらぬ末路を見せ付けられているかのような錯覚に、うすら寒くなる。 いいのか、俺は此処にいて、今更何処に行けるっていうんだ、自分で選んだ、選んだんだ此処を。 視界がぐらついていく、耐えながら歩みを進め、蠢くそれと二井谷をぼんやりと見つめながら後を追う。

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