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麝香
視線の先では、見知らぬ男が懸命に抗っている。
身を捩り、足をばたつかせ、頭を振りながら絡み付く腕を必死に掴んでいる。
くぐもった声を上げ、何とか踏ん張ろうと地に足を着けるも、嘲笑うように力ずくで引き摺られていく。
大の男とはいえ、二井谷とは住む世界が違う。
先を行く足取りは緩まず、男の首へと回された腕は鍛え抜かれ、抵抗されても僅かな動揺すら窺えない。
つい先程までは、何の変哲もない日常を歩んでいたはずが、一瞬で彼の世界は汚濁へと沈み込んだ。
きっと帰ってから何をしようか、家族がいるであろうから夕飯や晩酌、何気ない会話などの安らいだ一時を思い浮かべながら家路を急いでいたに違いない。
それが今では薄汚くスーツを乱れさせ、いずこかへ浚われようとしている。
黙々と後を追い、自由を奪われた男を見つめ、眉を顰めるも言葉が出ない。
俺はコイツの事は知らない、二井谷さんだってこの男とは何の面識もない。
でも依頼だから奪う、それだけの事をしたらしい。
「離せ! やめろ!」
布地の袋を被せられている為、不明瞭な羅列を耳にするも、程なくして何を言っていたか理解する。
なよやかな風が、慈しむように此の身を撫でるも、優しく突き放していく。
光なんて届かない、この場所なんてもっと暗い。
建造物との隙間は狭く、二人が肩を並べて歩ける程度であり、迫るように両側から壁が圧迫している。
振り返れば、狭小な路地の先に大通りが見え、街灯でぼんやりと明るい。
彼は奪われ、自らは手離した平穏がすぐそこで、変わらずに未だ流れている。
ひょっとしたらまだ、戻れるのではないかと錯覚させるように、平凡だが自由で穏やかな日々が、手を伸ばせば届きそうな場所でこれから先も営んでいる。
何でそんな事を思うんだ、俺は戻りたいのか……?
いや違う……、後悔なんてしていない、これが正しい、正しいんだ。
言い聞かせるように胸中で呟き、再び前へと視線を戻せば、往生際悪く男がまだ逃れるべく抗っている。
無駄なのに、逃げられっこないのに、なりふり構わず叫んで暴れている。
「うるせえな……」
後ろ姿を見つめていると、押し殺すような声が聞こえ、思わず耳を澄ます。
しかし継がれる言葉は無く、先を急いでいた二井谷が不意に立ち止まり、勢い良く男を引き摺り上げる。
双眸には、首根っこを掴まれた男が立たされ、壁へと頭部を打ち付けられている様が映り込む。
何度も何度も、呻き声が弱々しくなるまで叩き付け、とても見ていられない。
それなのに眼球は、圧倒的な暴力に捩じ伏せられる弱者を追い、魅了されたかのように捉え続けている。
「う……、うぅ」
か細い声に、ようやく二井谷は手を止め、抗えなくなった標的から離れると、その者は力無く地べたへと崩れ落ちる。
眼下で手際良く、息をしているだけの傀儡に成り下がった男へ、二井谷が衣服の物入れを漁りながら近付くと、何かを取り出す。
後ろ手にまとめようとしたところで、肩からずり落ちていた鞄を取り上げ、手荒く放り投げる。
そうして目配せされ、察してから静かに近付くと、男の鞄を拾い上げる。
屈んだ際に、ふうふうと苦しそうな息が微かに聞こえるも、気付かない振りをしてその場に立ち尽くす。
二井谷といえば、梱包によく使われているような樹脂バンドを巻き付け、手錠代わりに拘束している。
息が詰まる光景だが、彼にとっては日常の延長に過ぎず、素早く事を済ませてから標的の胸ぐらを掴み、再び立ち上がる。
「歩け。出来るな」
耳元で囁いて、有無を言わさず歩き始めれば、付いていけない足が縺れそうになりながらも食らい付き、求めに応じている。
背中を見つめ、次いで足元を眺めれば、虚ろな暗闇が広がっていて、今にも沈んでしまいそうだ。
いや、沈んでしまうなんて嘘だ、もう浸かっているのだから今更ここまで来て無関係は気取れない。
一歩を踏み出して、また一歩、一歩と使い古された鞄を持ちながら追い掛け、その度に我が身から大切な何かが道端に落ちていくようで、気付いているのに分からない振りをして立ち止まることも、振り返ることも出来ずに前だけを見つめ、二井谷を追い掛ける。
極力、標的には視線を注がず歩き、単調な抜け道を進みながら前を見つめ、先にはぼんやりと薄明かりが待ち受けている。
自分は何もされていないのに、早鐘を鳴らす鼓動がうるさく脈を打って、浅い呼吸に頭が痛くなる。
青ざめている様相には気付けず、我が身を案ずる余裕もなく、ただひたすら後を追い掛けて光を目指し、黙々と足を速める。
どれくらい歩いてきたか、時間にしてはものの数分であれど、気が遠くなりそうな程に拘束されていたような息苦しさが纏う。
しかしうっすらと、ようやく明かりが近付いてきて、心の何処かで安堵してしまう自分をごまかせない。
情けない己から目を逸らし、我が道を突き進む二井谷が先に辿り着くと、僅かに立ち止まって様子を窺ってから出ていく。
慌てて続けば、広大な夜空の下へと再び躍り出て、視線を巡らせれば見覚えのある車体が映り込む。
そういう手筈か、と今更ながらに納得するも、ゆっくりと考えている暇はないまま小走りに、目的の場所を目指していく。
向かう途中で、鈍色の車体から鼓動が轟き、発進するだけとなったそこへと二井谷が駆け、開かれた後部座席に男を放る。
もたもたしていたら何を言われるのか分からないので急げば、案の定二井谷が振り返り、口を開く前に駆け付けて乗り込む。
直ぐ様ドアが閉まり、殆ど同時に助手席へと二井谷が収まると、息つく間もなく由布がハンドルを切ってその場を後にし、何事も無かったかのように時間が流れていく。
たった一人が消えたとして、誰も気付かない。
連携に無駄はなく、入念に下調べから準備されていたことが分かり、果たして自分が狙われたら逃れられるだろうかとぞっとする。
一列目の座席に放り投げられていた男は、時おり苦しげな声を漏らしながらも横たわり、大人しくしている。
嫌でも見つめて、後ろの座席へ移動しようとすれば二井谷が振り返り、身を乗り出してくる。
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