301 / 347
麝香
由布といえば、乗り込んでから一言も喋らず、運転席で前を見つめている。
ハンドルを握り、アクセルを踏み込めば景色が移り変わり、何食わぬ顔で大通りを駆け抜けていく。
交通量は少ないものの、一定の速度を保ちながら流れに沿い、目立つ行動は極力控えているのだろう。
鈍色の車体が、昨日までと変わらぬ街を過ぎ行き、咎める者は誰も居ない。
ぼんやりと突っ立っていれば、後方へと身を乗り出していた二井谷に呼ばれ、我に返って顔を向ける。
視線の先では、助手席から二井谷が顔を覗かせ、平然と手を差し伸べている。
注視すれば、粘着テープが握られており、程なくして思惑を察する。
「あと、コレ」
近付いて、無言で粘着テープを受け取ると、次いで思わぬ物を手渡される。
「コレ……」
一方の手には、携帯用の音楽プレーヤーが収まり、イヤホンが繋がっている。
出先でも好きな楽曲を楽しむ為の物だが、そうではないことくらい考えなくても分かってしまう。
耳を塞げ、というメッセージを理解し、複雑な表情を浮かべて視線を注ぐ。
相変わらず車窓からは、次々と街並みが過ぎ去り、薄明かりに包まれている。
視線を下ろせば、小刻みに身体を震わせた男が横たわり、言い様のない恐怖に駆られていることだろう。
掛ける言葉はない、生憎持ち合わせてもいない。
両手が塞がっていたので、まずどちらも座席の端に置き、腰を下ろしていく。
布製の粘着テープは、唯一自由であった両足を封じろと解釈し、その物を取って足首に巻き付ける。
粘着力が強く、ビリビリと音を立てながら幾重にも貼り巡らせ、適当なところで千切って終わらせる。
自力で逃れるには、絶望的な状況、そして状態だ。
何処へ向かっているかなんて、飛び入り参加の身には知らされず、聞いても教えてくれるとは思えない。
アンタ何やったんだよ……、お互いついてねえな。
胸中で呟くも、事態は何ら変わらずに時を刻み、次いで携帯用の音楽プレーヤーを拾い上げる。
標的が寝転がっている為、座席の端へと浅く腰掛け、機器の電源を押す。
直ぐ様液晶が光を帯び、曲の途中で停止していることに気が付き、試しに再生を指先で触れてみる。
次いでイヤホンの片方を持ち上げ、耳に近付けていけば音が漏れており、激しい曲調が鼓膜を揺さぶる。
これは絶対に二井谷の趣味だな、と根拠はないものの確信しつつ、音楽を流しながらイヤホンを持って距離を詰め、頭から被せていた袋を少しずらす。
なるべく顔は見ないように、左右の耳へとイヤホンを装着させ、念のために音量を更に上げておく。
恐らく知らないであろう、きっと騒々しいだけの音楽を無理矢理聴かされるなんて、苦痛に違いない。
視力も、聴力も奪われ、果ては満足に身体を動かすことも出来ず、ただ次なる展開を待っているだけなんて、完全に詰んでいる。
何もしていなければ、恨まれるような悪事を仕出かしていなければ、彼はこんな事にはなっていない。
自業自得だ、自ら引き寄せた転落なのだと言い聞かせても、なかなか納得出来なくて胸が苦しい。
どくどくと、もういつから鼓動がうるさく喚いているのかも分からぬまま、被せていた物を元通りにする
「よく出来ました。察しが良くて、感心感心」
視線を向ければ、一部始終を見守っていた二井谷が笑っており、寄越せとばかりに手を差し出している。
それを見て、置いていた粘着テープを掴んでから渡し、彼を視界に収める。
にこやかで、事が起こる前と変わらぬ雰囲気で、真っ直ぐに見つめている。
気に病むようなことではない、少なくとも彼等にとってはそうなのだろう。
でも俺は……、俺は何の為に此処に……、と心が揺らめき、注がれる視線が痛い。
「なかなか向いてるんじゃねえか?」
「別に嬉しくないっすね……」
「まあ、そう言うなよ。最初はどうなるかと思ったが、今のところ順調だ」
「そうですか……。そりゃ良かったっすね」
「なんだよ、テンション上げろよ~。多少は認めてやろうとしてんのに」
「コレ、どうするんすか?」
努めてぶっきらぼうに、親指で指し示しながら聞けば、二井谷が口を開く。
「気になるのか?」
「そりゃ……、いきなり一般人がこんな目に遭ってりゃ、誰でも気になるんじゃないすかね」
無関心を装いながらも、隠しきれない興味を匂わせ、時おり標的を眺める。
俺に出来ることはないだろうか、と考えてしまいそうな雑念を振り払い、薄暗い車内で前を見つめる。
「どうすると思う?」
「俺が聞いてるんすけど……」
「ただでは帰せねえよなあ? ここまでやっちまうと」
「そこまでのこと……、したんすか?」
「それはお前が判断するべきことじゃねえ。依頼主がお望みなんだ」
「コイツの部下……でしたっけ。何したんすか」
「ん~、なんだったかなあ。あんま興味ねえから説明されてもすぐ忘れちまうんだよなあ」
顎を掻きつつ、のんびりとした口調で暢気に紡ぎ、暫し余所見をする。
興味がないのは本当だろうな、とすんなり納得してしまい、恐らく一度や二度ではないのであろう。
恨んで、憎んで、殺してやりたい程に苦しんで、抱えきれなくなった者がこうして一線を越え、彼らのようなならず者に縋るのだ。
自らを落として、一生拭えることのない穢れを纏ってまでも、許せない。
せめて理不尽な暴力に苛まれ、そうして苦しめと、標的を通して依頼人の慟哭が透けて見えるような、名すら知らないのにおかしな話であるとは思うも、つい思考を巡らせてしまう。
「依頼人には、会ってないんでしたっけ」
「そうだな。会ったって何の得にもならねえしな。恨み辛み聞いてやんのは黒瀧だけで十分だろ?」
「まあ、そうっすね」
「お前コイツに同情してんのか? 可哀想にって」
「いや……、別に、そんなことは……」
慌てて取り繕うも、心情を探るような視線に捕らわれ、思わず生唾を飲む。
何も事情を知らされていないのだ、一方的に殴られた者を目の当たりにすれば、つい情に絆されそうになるも致し方ないことなのだが、それを前面に押し出すには危うい相手である。
ともだちにシェアしよう!