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麝香

眉根を寄せ、二井谷の視線から逃れるように俯き、薄暗い足下を見つめる。 幾夜をも共にしてきたスニーカーが、我を忘れて暗がりに溶け込み、元の色を失って息を潜ませている。 まるで自分のように。 俺は一体、かつて何色であったのだろう。 色なんてあっただろうか、重ねられ過ぎていつしか自分を見失ってしまった。 ふと顔を向ければ、囚われの男が映り、先程から死んだように横たわっている。 暗く、うつ伏せで、頭からすっぽりと袋を被せられている為、顔は分からない。 耳に捩じ込んだイヤホンからは、微かに音が漏れている。 深く皺が刻まれたスーツに、後ろ手に拘束された腕、時おり遠慮がちに身体を動かし、彼は一体何を考えていることであろう。 「後はコイツを、どうにかするだけなんすよね?」 哀れみとも、侮蔑ともとれるような視線を、標的に注ぎながら口を開く。 「いや、まだもう一件野暮用がある」 「え?」 「なあ、そうだよな?」 予期せぬ展開に、思わず気の抜けた声を上げ、助手席の二井谷を見つめる。 彼といえば、言ってから運転席へと顔を向け、由布に改めて確認している。 「今向かっているところだ。それくらい覚えておけよ」 「覚えてんだろうがよ。一応確認しただけだ。んで、そいつの処遇は、その後って事だな」 淡々と毒づかれ、二井谷は不服そうに唇を尖らせてから視線を投げ掛け、うつ伏せの男を指し示す。 「また……、おんなじような感じすか?」 「あ? 同じって?」 「その……、コイツみたいな」 「あ~、今回はちょっと違うかもしんねえわ。今度は女の子だからなあ」 「女?!」 目を丸くし、耳を疑う。 身を乗り出すも、我に返ってから座り直し、腿の間で両手を組んで困惑する。 女って……、こいつら、女も食いものにするのか? 先程よりも深く、眉間に皺を刻ませながら考え、様々な想いが去来する。 もしかしたらそいつも、誰かに恨まれて……? でも、この男とは少し事情が違うみたいだ……。 「お前さ、結構顔に出るよなあ? そんなに気ィ進まねえ? 薊さんにチクっちゃう?」 「そんなこと……! しませんよ……」 「あらら、殊勝だねえ。それで? 何が引っ掛かってんだよ。女だから?」 「まあ……、はい」 そわそわと落ち着かず、指を撫でたり、擦り合わせたりしながら、二井谷の問いへと素直に頷く。 「こんなところへ売り飛ばされるくらいだ、女だってまともじゃねえよなあ? それなのに気にしてるなんて、來君てば見掛けによらず優しいんだねえ」 「からかってんすか? ん……? 売り飛ばすって……」 「そいつとは決定的に違うところ。買うんだよ」 「買うって……」 そんな……、物みたいに……。 何と言えばいいものか分からず、口を開けど二井谷の耳には届かない。 一体、何をしているのだろう。 一体、何をする気なのだろう。 疑問符が浮かぶばかりで何一つとして解決されず、我が身はずぶずぶと泥沼に沈んでいく。 買うということは、彼等は金銭を支払うのだろうか。 これから出会うであろう女の為に、わざわざ差し出す輩へと……? 「にしても、初めて会う奴等だよな? 一体何処から嗅ぎ付けたんだ?」 「知らん。邪魔になるようなら消せばいい」 「とは言うけどさ、どうしよう。ぞろぞろ引き連れてきたら。怖いなあ。守ってね、俺のこと」 「お前は死ね」 「あァッ?! お前も死ね!」 二井谷は中指を突き立て、由布といえば前を見つめており、相変わらず何処かへと車を走らせている。 解放されるには程遠く、まだまだ案件が残されているようであり、隠れてひっそりと溜め息を漏らす。 女を買う? 何の為に? 一方的な言い争いを余所に、後部座席にて腰掛けながら思考を巡らせ、自分なりに整理を試みる。 好き勝手に弄ぶだけなら、こんなにも回りくどく、経費が嵩むような真似は恐らくしないであろう。 きっと何か、失われた金銭を取り返し、且つ得するようなことがあるからこそ、彼女を浚うのだろう。 「そんな上手くいくのか……?」 一人言を漏らし、次いで囚われの男が視界に入り、愚問であったと考え直す。 目の当たりにしたはずだ、彼等の手腕を嫌という程に。 もしも自分が、一人でこの会社員を浚うようなことがあれば、最終的には逃げられてしまう気がする。 盗み見る前方では、二井谷が笑みを浮かべながら小突いており、由布はやめろと溜め息を漏らしている。 暢気な笑い声が響き、とても彼を浚い、路地裏へと引き摺り、暴力を振るっていたようには見えない。 自然と脂汗が滲み、暑いのか寒いのか分からなくなり、握り締めた拳が僅かに震える。 逃げられるだろうか……、この男達から。 過らせてからハッと我に返り、思わぬ言葉に自分でも驚いてしまう。 逃げる? この人達から? なんで……。 「お前からも何か言ってやってくれよ、こいつに~!」 「え……、あ、えっと……」 物思いに耽れば、急に話題を振られて顔を上げるも、咄嗟に対応出来ずに言葉を詰まらせてしまう。 二井谷は不満そうな顔をして、依然として由布の腕を小突いており、いい加減にしろと運転席から投げ掛けられてもやめない。 「仲、いいんですね」 「はあ~? そんな言葉は求めてねえのよ、俺は! 粗チンそうですねとか、そういうのにしてくれ」 キリッと、期待を注がれても眉根を寄せるばかりで、更に困惑してしまう。 「いや……、いいっす。結構遠いんすか? その、受け渡す? 場所って」 「あ~、結構走ってきたし、そろそろじゃねえの」 あからさまに適当な回答をされるも、由布からは特に訂正もないので、もう少しで着くのだろうか。 口振りから察するに、相手方とは初めて会うようであり、少なくとも彼等の生業は理解しているらしい。 どんどん深みに填まって、振り返る暇すらないままに、事が運んでいく。 問うべき事柄は山程あるはずなのに、喉につっかえて何にも出てこない。 言っていいのか、聞くべきなのか分からなくて、悶々と拳を握り締めながら時だけが過ぎ、愚かで壊れやすい心を乗せて、目的地へと静かに向かっていく。

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