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麝香

暗雲の下、そっと此の身を撫でながら、控え目に夜風が通り過ぎる。 「愛想悪~い。そうそう、コイツ。ちょっと傷付けちゃったけど、まあ問題ないよね?」 目の前には、腰まで伸ばされた黒髪を靡かせ、一人の女が佇んでいる。 切り揃えられた前髪が揺れ、艶美な双眸は由布を捉えており、紅に色付く唇は愉快とばかりに妖しく笑む。 頭の天辺から足の爪先まで黒ずくめで、陶器のようにすべらかで色白な肌が際立ち、一見すると上品なお嬢さんとしか思えない。 それだけ異質で、場違いで、無垢な子供が迷い込んでいるようにしか思えず、彼女も囚われているのではないかと錯覚してしまう。 けれども実際は、相手方を率いながら先頭にて立ち、臆することなく由布や二井谷と向き合っており、後方の贄を指し示している。 「それにしてもいかにもな車だよねえ。外からは何にも見えないなんて」 かと思えば、上体を逸らしながら前方を眺め、先程まで乗っていた車両を気に掛けており、鷹揚(おうよう)に勘繰っては面白がっている。 「不満か」 傍らにて、殊更感情を覆い隠して、由布が低く声を上げている。 背後では、鈍色のワンボックスが鼓動を唸らせ、前照灯が辺りを包み込む。 彼等は知りもしない、車内に取り残された存在を。 未だに内部では、手足を戒められた哀れな生け贄が、この世を憂いて絶望の淵に叩き落とされている。 そうして今度は、新たに増やそうとしている。 「まさか。寧ろ好感がもてるよ。しっかり仕事してくれそうじゃん?」 初めからずっと気になっていた。 けれど、考えてはいけないと蓋をして、なるべく見えないようにしていた。 しかしそれももう限界で、次から次へと疑問ばかりが溢れ返り、差し出されようとしている存在に胸が締め付けられていく。 彼女は、一体なんだ? 先頭にて佇む女ではなく、二人がかりに押さえ付けられながら、自由を奪われているもう一方の女だ。 「で、そちらの首尾は?」 鼓動が速まり、動揺が深まり、落ち着いてはいられない状況でも、淡々と目前では事が運ばれていく。 恐らく己と、囚われの女だけが置いていかれ、いつまでも場の雰囲気に適応出来ないでいる。 それもそうだ、当たり前だ、これから売り飛ばされようとしていて、良からぬことであろうと分かっていて、どうして平然と見守っていられるのだろうか。 黒髪の先導者は猫なで声を響かせ、二井谷が何かを取り出したかと思えば由布へと渡り、そうして更に相手方へ差し出す。 分厚い封筒が映り、中身なんて考えるまでもなく紙幣であると想像がつく。 ありふれた封筒に収まる程度の金額で、当人の意思なんて初めから無視され、未来を売買されている。 これは……? 俺は今……、何に荷担している? 「ちょっと……、何なのよそれ」 「君さァ、結構いい値で売れたよ。今まで散々遊んできた分、これからは一生懸命ご奉仕しなくちゃダメなんだよ? ね、可愛い可愛い莉々香ちゃん」 莉々香、と呼ばれた囚われの女が、愕然とした面持ちで声を震わせている。 一方で先導者は、たっぷりと愉悦を孕ませながら笑み、清々とした様相だ。 莉々香を陥れ、心底楽しくて仕方がなさそうに声を弾ませ、何かしら因縁があるであろうことが窺える。 だからって……、どうしてこんなこと……、これからどうなるか分かってるのか……? とは思えど、莉々香の処遇なんて自分にも分からず、それでも幸せにはなれないであろうことが明らかで、このまま傍観者でいていいのかと胸中がざわつく。 「二度と這い上がってこれないように、徹底的に沈めてくれなきゃやだよ? 懺悔も後悔も慟哭も、何もかもが届かない暗がりに放ってあげて。それが望み、それだけが望み。宜しくね……? お三方」 凍り付くような眼差しを注がれ、一員であるということをまざまざと突き付けられ、人知れず呆然とする。 それはそうだ、何処からどう見ても一味であり、まっとうな人間であるはずがない。 どんなに正したくても、戻りたくても、心細くても、とっくに来た道なんて分からない、自分が今何処で何をしているのかさえも分からない、本当は分からないんじゃない、理解していないんじゃない、受け入れたくないだけだ。 不安に駆られ、急に足場が崩れていくような錯覚に苛まれ、冷や汗が浮かぶ。 どうしたい、どうすればいい、どうしたら良かった、何が出来る、このままでいいのか、本当にこれでいいのかと方々からせめぎ合い、頭が割れそうだ。 「よし、じゃあ行こうか。長居は良くないからね」 「なっ……、いや! 離して! こんなの許されない! 何しようとしてるか分かってる!?」 「分かっているなら何……? お前うるさいなァ……、耳障りだから早く消えてよ」 「ゆ……、許さない、許さない許さない! 殺してやる!!」 「アンタよりは長生きするよ。あったかいところでさァ……、逃げられると思うなよ。お前もう終わりなんだよ」 涙を流しながらも、鬼気迫る表情で恨み言を吐き捨てる莉々香の髪を、乱暴に引っ掴んで女が笑う。 一体何をしたのだろう、どうしたらこんなに恨まれるのであろう。 方々から絡み付く視線に構わず、莉々香をぞんざいに扱ってから引き渡し、このような状況で微笑んでいる。 「アッハハ、おもしろ~い。見たァ? あの顔」 一人として味方が居らず、それでも食って掛かっていた莉々香は、自由を渇望するも叶わず二井谷に捕らえられ、開けた後部座席へと連れ込まれていく。 眉根を寄せ、途方に暮れているような表情で、会話を聞きながら立ち尽くす。 信じられないような出来事に晒され、ゆっくりと考えている暇もなく事が運び、あっけなく莉々香は手中へと落とされた。 何かあったのだろう、それは明らかだけれど、だからといってこんな事がまかり通っていいのか。 渦巻く感情が、少しずつ正体を現しながら一つになり、怒りがわき上がる。 我が身を初めとしてあらゆる方向へと矛先が向けられ、黒髪の女が高笑いする度に苛立ちが募っていく。 そのような心境を知ってか知らずか、由布は無言でさっさと立ち去り、程なくして運転席へと収まったであろうことを察する。

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